薔薇の嘘
「はい。はい、ええ、問題ありません。
無茶言って本当にすみませんでした。
え?あーいえいえ、これが仕事なんで。
はい、本当にありがとうございます。
失礼します」
相手が電話を置いた音がして、そっと受話器を置く。
「…お…終わった…」
オフィスの照明は落とされている。
周りには誰もいない。
自分のデスクのライトだけが白く光っていた。
眼鏡を外すと、どっと目と肩に重りがのしかかってくる。
「あー…疲れた…」
机に突っ伏すと、空白の卓上カレンダーが目に入った。
遊びの予定が入るとここに書き込むようにしていたのだが、今となっては何も書くことがない。
そもそも、遊びと言っても一人で駅の周辺をぶらぶらする程度だった。あとは、オーケストラや舞台を観に行くなど。もちろんそれも一人。
はぁ…
「なんかいいことねぇかなー」
どっかの高校生が同じようなことを呟いていそうだ。
この世界は退屈だ。何もない。
ありすぎて何もない。
やることも服も靴も、皿も、レシートも、捨てても捨てても増えていく。
そして、僕の心には悲しみと苦痛と疲労だけが溜まっていく。
それはどうやっても捨てられない。今にも爆発しそうだ。水を入れすぎた水風船みたいに。夏祭りも今年は行かなかったな…
「あー辛い。辛い」
口に出しても何も変わらない。
でも、口に出せているうちはまだマシだ。
水が溜まり過ぎると、口すら開けなくなる時がある。
そして、その水が目から出てくる。
それはしばらく止まらない。
「おつかれ様でした」
自分に言った。
デスクのライトを消すと、もう何も見えない。
窓の外はあんなに賑わっているのに、僕はここにたった一人だった。
……
オレンジ色の柔らかい街灯が、せめてもの慰めのように僕の道を照らしている。
帰ったらカップ麺でも食うか…
「お兄さんお兄さん」
派手なハッピを着た、いかにもチャラ男と呼ばれそうな男が声をかけてきた。
綺麗な街路樹の下、と広く整備された歩道で、どうしてこんな下品な男に声をかけられなきゃならない?それもこんな疲れてる時に。
「すみません、急いでるんで」
スルーしようとしたが、ハッピのチャラ男は歩きながら話しかけてくる。
「オシャレっすね〜、どーすか、ウチでカッコイイ学生を集めてまして」
「が…学生」
軽くショックを受けた。私服だからというのもあるのかもしれないが、それにしても。
まあ、一応入社一年目、22歳だ。大学生に見えても全くおかしくはない。
「えーっとお〜、大学…いや、高校生っすか?一応18歳以上か確認…」
あまりの暴言に言葉を失い、立ち止まった。しかし、すぐに足を動かした。
こんなことでキレたりしたらいかん。
「…急いでますから!」
「あっ、ちょちょちょ!」
しつこい勧誘だ。振り切ろうと思ったが、ちょうど交差点の信号に捕まった。最寄り駅まであと少しだというのに。
「お兄さん、どうすか!月収一千万も夢じゃないって!」
月収一千万。夢のまた夢だな。
いや、夢の域を超えておとぎ話だ。
ちょうど信号が変わりそうだ。
言いたいことだけ言って振り切ってやろう。
「どうすか?すぐそこの黒いビルの…」
「あのね」
眼鏡を持ち上げて口火を切った。
「何の勧誘だかしりませんけど、僕は学生じゃないし、立派な社会人ですから!!
22ですから!アルバイトなんかしてる暇、ありませんから!」
少し声が大きかっただろうか…
まあ、いいや。チャラ男は黙ってるし。
「じゃ、青信号なんで!」
僕は言ってやった。言ってやったぞ。
これでもう追いかけてはこないだろう。
ふーっと息をついて、広い横断を渡った。
通行人はまだ絶えず、自動車のハイビームも眩しい。
チャラ男はついてきていないようだった。
横断歩道を渡りきると、地下鉄へ降りる階段が見える。
そこへ入っていく。巣穴へ戻るように。
しかし、人に言いたいことを言うってのはいい気分だ。あのチャラ男も必死だったんだろうが…
そう思うと少し可哀想にも。
いやいや、この僕を高校生扱いした奴に同情の余地はない。
「まもなく〜、一番線に〜、電車が〜」
鉄の擦れる音と、吹き抜ける風。
現れた車両は、案の定満員。
はいはい、今日もまだ一仕事ね。
扉が開いた。
のろのろと乗車する列を急かすように、扉を閉める音が鳴り始める。
しかし、列が早く進んだりはしない。
「ドア、閉まりまーす」
なんとか自分を車両につめこむ。