三十路のサダメ~星屑古書堂と恋~
第三章「こころ/夏目漱石」
「しかし君、恋は罪悪ですよ、解かっていますか――か。」
今日も私は郁也に薦められた本を読み考えにふけっていた。
夏目漱石の「こころ」――さすがの私もこの作品は知っている。
そこで「先生」が口にするこの台詞が私はどうにも引っ掛かっていた。
確かに恋は醜く変容することもある。
時として嫉妬を生み、裏切りを生み、諍いを起こす。
しかしだからと言って「恋は罪悪」と断定するのはいかがなものなのだろうか――。
私は文豪相手にそんな図々しい事を思っていた。
会社帰り、いつものように星屑古書堂に立ち寄ると先客がいた。
女性が、郁也と楽しそうに談笑している。
途端に私は値踏みモードに入った。
着ている服は花柄のワンピース、膝丈、パンプスの色もセンスがいい。
黒髪を後ろで一つにまとめ、シュシュを結わえてある。
全体的に清楚なイメージ。私とは真逆だ。
不意に女性が振り向いた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
女性は美しかった。
いや、美しいだけじゃない。
細身の眼鏡をかけて変装しているが、この人は最近話題の若手女優・向坂 若菜(さきさか わかな)ではないか。
呆然と見つめる私に気付いたのか女性は慌てた様子で郁也に会釈すると、私の横を通り過ぎて行った。
その背中を馬鹿みたいにぼーっと見送っていた私に、郁也が声をかける。
「美弥子さん?どうしました?」
「え…あの…今の…」
「ああ、若菜さん。以前からたまにご来店するんですよ。最近有名だそうですね。」
だそうですねって――この人はテレビを見ないのだろうか?
向坂若菜は今どこの局をかけても見かける旬の女優だ。
「あの…郁也さん、今の…向坂若菜さんと仲いいの?」
「よくご来店されるので話は合いますね。彼女もかなりの文学好きですよ。」
さらりと答える郁也はこちらの動揺に全く気付いていない様子だ。
そんな…そんな女優相手に私が勝てる訳ない。
気付けば自分がわなわなと震えている事に気付いた。
これは、嫉妬だ。
恋は罪悪――
夏目漱石の言葉がふとよみがえった。
嫉妬している私は自分でもわかるくらい醜いだろう。
私は無理矢理気持ちを立て直すと、メイクのばっちり決まった顔で郁也に対して微笑んでみる。
郁也もそれに応え微笑み返してくれる。
うん、よし、いつも通りだ。
「郁也さん、こころ全部読んだわよ。面白かった。」
「それはなによりです。漱石なら僕は『それから』なんかもオススメしますよ。」
「いただくわ。」
即答していた。
動揺していることがばれたくないのに、言動が自分でも不自然になっているのがわかる。
郁也はそこで初めて真顔になった。
私は目を逸らすしかなかった。
醜い。私は醜い。
ふ、と目の前に郁也の美しい顔が現れた。
顔をのぞきこまれたのだ。
どきりと心臓が跳ねる。
「美弥子さんどうしました?顔色がすぐれないようですが。」
「え、えっと…あの…」
最近気付いたのだが郁也は距離感が上手く掴めない。
今みたいに気安く近付いてくる事もあれば、近付きづらいオーラを発している時もあったり、日によってバラバラ…と言うよりも私はこの人の事を理解しきれていなかった。
ミステリアスな所が魅力、なんて思っていたがここは一歩踏み込んでみてもいいのかもしれない。
「わたし、あの、ね」
「はい」
「郁也さんのこともっと知りたい」
ようやくそれだけ言うと私は俯いた。
耳まで真っ赤になるのがわかる。
十代の小娘じゃあるまいし、何をこんな事を言うくらいでどぎまぎしているのだろう。
「――いいですよ。」
返ってきた答えは意外なものだった。
反射的に郁也の顔を見上げると、そこにはいつもの笑顔があった。
「それでは今度二人で出かけましょうか。」
私はみるみる内に口元が緩むのを止められず、慌てて手で口元を隠した。
今日も私は郁也に薦められた本を読み考えにふけっていた。
夏目漱石の「こころ」――さすがの私もこの作品は知っている。
そこで「先生」が口にするこの台詞が私はどうにも引っ掛かっていた。
確かに恋は醜く変容することもある。
時として嫉妬を生み、裏切りを生み、諍いを起こす。
しかしだからと言って「恋は罪悪」と断定するのはいかがなものなのだろうか――。
私は文豪相手にそんな図々しい事を思っていた。
会社帰り、いつものように星屑古書堂に立ち寄ると先客がいた。
女性が、郁也と楽しそうに談笑している。
途端に私は値踏みモードに入った。
着ている服は花柄のワンピース、膝丈、パンプスの色もセンスがいい。
黒髪を後ろで一つにまとめ、シュシュを結わえてある。
全体的に清楚なイメージ。私とは真逆だ。
不意に女性が振り向いた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
女性は美しかった。
いや、美しいだけじゃない。
細身の眼鏡をかけて変装しているが、この人は最近話題の若手女優・向坂 若菜(さきさか わかな)ではないか。
呆然と見つめる私に気付いたのか女性は慌てた様子で郁也に会釈すると、私の横を通り過ぎて行った。
その背中を馬鹿みたいにぼーっと見送っていた私に、郁也が声をかける。
「美弥子さん?どうしました?」
「え…あの…今の…」
「ああ、若菜さん。以前からたまにご来店するんですよ。最近有名だそうですね。」
だそうですねって――この人はテレビを見ないのだろうか?
向坂若菜は今どこの局をかけても見かける旬の女優だ。
「あの…郁也さん、今の…向坂若菜さんと仲いいの?」
「よくご来店されるので話は合いますね。彼女もかなりの文学好きですよ。」
さらりと答える郁也はこちらの動揺に全く気付いていない様子だ。
そんな…そんな女優相手に私が勝てる訳ない。
気付けば自分がわなわなと震えている事に気付いた。
これは、嫉妬だ。
恋は罪悪――
夏目漱石の言葉がふとよみがえった。
嫉妬している私は自分でもわかるくらい醜いだろう。
私は無理矢理気持ちを立て直すと、メイクのばっちり決まった顔で郁也に対して微笑んでみる。
郁也もそれに応え微笑み返してくれる。
うん、よし、いつも通りだ。
「郁也さん、こころ全部読んだわよ。面白かった。」
「それはなによりです。漱石なら僕は『それから』なんかもオススメしますよ。」
「いただくわ。」
即答していた。
動揺していることがばれたくないのに、言動が自分でも不自然になっているのがわかる。
郁也はそこで初めて真顔になった。
私は目を逸らすしかなかった。
醜い。私は醜い。
ふ、と目の前に郁也の美しい顔が現れた。
顔をのぞきこまれたのだ。
どきりと心臓が跳ねる。
「美弥子さんどうしました?顔色がすぐれないようですが。」
「え、えっと…あの…」
最近気付いたのだが郁也は距離感が上手く掴めない。
今みたいに気安く近付いてくる事もあれば、近付きづらいオーラを発している時もあったり、日によってバラバラ…と言うよりも私はこの人の事を理解しきれていなかった。
ミステリアスな所が魅力、なんて思っていたがここは一歩踏み込んでみてもいいのかもしれない。
「わたし、あの、ね」
「はい」
「郁也さんのこともっと知りたい」
ようやくそれだけ言うと私は俯いた。
耳まで真っ赤になるのがわかる。
十代の小娘じゃあるまいし、何をこんな事を言うくらいでどぎまぎしているのだろう。
「――いいですよ。」
返ってきた答えは意外なものだった。
反射的に郁也の顔を見上げると、そこにはいつもの笑顔があった。
「それでは今度二人で出かけましょうか。」
私はみるみる内に口元が緩むのを止められず、慌てて手で口元を隠した。