サイレン
ふと顔を上げて、短い廊下を駆ける。
開きっぱなしのリビングに続く扉を抜けて、向かうのはベランダ。
もつれる指を急かして、鍵を開けると外へ飛び出した。
この部屋は四階だから、きっと下にも声は届くはず。
手すりに身を預けて下を覗くと、まだ彼の車が路肩に停まっている。
ホッとしていたら、ちょうど上原さんがマンションの入口から出てきて車に乗り込もうとしていた。
「上原さん!」
まさかこのタイミングで名前を呼ばれるとは思っていなかったようで、彼はキョロキョロと辺りを見回している。
「上、上!」と半ば騒ぐように言うと、すぐにこちらを見上げてくれた。なんせ前髪のせいで顔が半分見えないから、ちゃんとした表情は分からないのだが、たぶん驚いているに違いない。
笑いかけると、彼も笑った。
「なんだよ、酔っ払い。早く寝ろ」
……やっぱり、そういうことを言う。
「もう酔ってません!」
「コートと靴はどーすんの?」
「……捨てます!」
「じゃあ今日早速新しいのでも買いに行けよ」
「会いに行ってもいいですか?」
唐突に前触れもなく想いをむき出されて、向こうがたじろぐのが感じ取れた。
口元は笑っていたのに、もう今は笑ってない。
迷惑だと受け取れなくもない。
「ダメですか?」
「…………来るなよ」
彼は、たぶんそう言ったと思う。私の位置からはそう聞こえた。
「来なくていいからな」
「押しかけます!」
「来るなって」
職場に現れたら迷惑なのは、もちろん承知の上だ。
彼の反応を見たかったのだ。
まあ、その反応が正解。
沈む気持ちを見せないように、大げさに手を振った。
「じゃあまた!」
また、なんて言ったのは、自分自身をフォローしたかったのかもしれない。
彼の返事を聞かずしてベランダからリビングへ舞い戻る。
この歳になって、こんなことするなんて呆れた。
人って短時間でも誰かを好きになれるんだ。