ビーサイド
本物を目の前にした私は、なんの言葉を発することもできずにいた。
発したい言葉すら、頭に浮かばなかったのだ。
「若菜どいて」
無造作にマフラーを巻いた涼くんは、彼女を押しのけて部屋から外へと出てきた。
彼の部屋のドアが閉まる刹那、カレーあっためとくよと言った彼女の声がひどく胸を締め付ける。
「…ちがうから」
彼は階段を下りながらそう呟いた。
ずっと追い求めていたその手が私の手に重なったが、今それはあまりに残酷だ。
「…うん、確かに、ちょっと似てるかもね」
私の乾いた笑いに気付いた彼は、こちらを振り返る。
奇しくも私より一段下からこちらを見上げたその顔は、初めてライブハウスに連れて行ってもらったあのときを思い出させた。
「話そらさないで?あれは違うって言ってるの」
「…あは、違うってあれ見せられてそれは無理あるよ」
こんなときにこそ涙でも溢れてくれたらいいのに、私は昔から変なところでプライドが高い。
「あれは…色々あってこうなってるけど別に付き合ってるとかじゃないから」
「付き合ってるわけじゃなくたって、涼くんは手も繋ぐしキスもするじゃん」
自分で言っておきながら、墓穴を掘ったとしか思えなかった。
「それはお互い様だよね」
「なっ、私はっ……誰でもいいわけじゃないから!」
あーいやだ。
こんなはずじゃなかった。
せめてもう少し可愛く、もう少しいい雰囲気の中で伝えたかったのに。
彼といるとなにもかもが想定通りにいかない。
「じゃあ昨日のなに?」
ほら、またこうやって彼は想定外の行動を起こす。