愛のない部屋
「着いたよ」
柔らかい声が脳裏に過る。
こんな優しい声、知らない。
ずっと聞いてきたのは私を罵倒する汚い言葉。耳を塞ぎたくなる衝動に駆られ、なにも聞かないようにしてきた。
「おい、着いたってば」
「嫌っ!」
誰かの手が肩に触れたような気がしたので、咄嗟に払う。
そして瞼を開ければ、驚いた顔の峰岸と目が合った。
「ごめん、寝ぼけてた」
「…良いから、降りろ」
景色は変わり、見覚えのある家の前に着いていた。
峰岸に促されるまま鞄を掴み、運転手の方を見る。
「お代はお支払い頂いたので大丈夫ですよ」
こちらの意図を察したのか、運転手は言った。
峰岸に続き、親切な運転手に挨拶をしてタクシーを降りた。
すると、すぐに峰岸が傘を差し出してきた。
「させば?」
玄関まで数歩だというのに、既に広げられた傘を無理矢理もたされる。
「お金、払うよ」
素直に傘に入り、鍵を開ける峰岸に近付く。
傘に入れてもらい、おまけにタクシー代まで払って貰うなんて図々しすぎる。
「別にいいよ」
「私はよくない」
「気にすんな」
峰岸は譲らず、結局私が折れることになった。
借りを作りたくなかったのにな。