おやすみピーターパン

彼は何も答えなかった。代わりに、つう、と指の間から一筋の涙が零れていった。綺麗な、綺麗な涙だった。

遠慮がちな嗚咽が零れて、苦しそうに胸を上下させる。なんだか酷いことをしたような気になったけれど、反面的に嬉しかった。


「ごめん、ちょっと…………見ないで」

「どうして」


見るなと言って彼は泣き声を、全部自分の中に閉じ込めてしまおうと両手で顔を覆おうとする。それを私は片手で軽く制する。そのすれば簡単に勝てるくらいの弱さだった。

露わになった濡れた瞳は、今までに見たどんな涙よりも綺麗だった。


「ねえ泣いてもいいんだよ、子供なんだから」


────昔、ママに言われたことがある。

立派な大人になるために”子供”という過程があるのだと。だからたくさん勉強して、恥をかかない大人になりなさいと、微塵もテンションの上がらない数学のテキストを積み上げられ、酷く窮屈な気持ちになったんだ。

それでもテストで良い点を採った時にママに褒められるのが嬉しくて、必死に勉強した。だけど期待には応えられなくて、中学受験に失敗して、高校も都内の平均的な偏差値の所に行った。その時ママに「子供のうちから躓くことを覚えないでちょうだい」と言われたのは、ちょっと言葉の意味が分からなかったのに傷ついた。

だから、ママとパパが上手くいかなくなったのをいいことに、こんなところまで逃げてきたんだ。

私だって同じだ、向き合えなくて、逃げきた。


傷つきたくなくて、逃げてきて。”子供のうちから躓くことを覚えた”私達は、そりゃあ立派な大人になんてなれないんだろう。

彼なんて、大人になることすら出来ないのに。


……………それなら、せめて。

それぞれの現実から逃げ回ることのできる子供のうちは、子供らしく泣いて笑って、間違ってもいいじゃないか。
< 22 / 41 >

この作品をシェア

pagetop