甘く、儚く
始まりはとても簡単なものだった。
昔からの『知り合い』。ただそれだけ。
特別仲が良かったわけでも、何か奇跡が起きたわけでもない。
卒業式後の静かな教室で、帰り際すれ違った彼と数言言葉を交わし、気付いたら私の寂しさと18年を彼の部屋で抱かれていた。
この日から何かが歪み始めた。
まだ少し寒い3月の春と、
ずっと温めてきた私の春は、
甘美なほどに溶け合い、混ざり合って、
彼に吸い込まれていった。
「俺の事、ちゃんと名前で呼んで」
そう彼が言った。
素直な私は、彼の名と共にたくさんの愛を喘いだ。
これが幸せというものなんだ
まだ幼かった私は、本気でそう錯覚していた。
次の日から、私たちはずっと一緒にいた。
なんとなく会いたくなって
なんとなく愛を言葉にして
日を重ねるごとに、視界がはっきりしてきて、
彼の事がたくさんわかるようになった。
彼の好きなことも
彼の嫌いなことも
彼の本当の心も
知りたいと思うより先に、知っていった。
気ままで少し強引な彼は、
そのサディスティックに自分の弱い心を隠していた。
本当は誰よりも寂しがりやで、
誰よりもひとりぼっちだった。
ある日、私は同じベッドで彼と同じ朝を迎えていた。
大学生になった私たちは、未熟ながらも、精一杯背伸びをして生きていた。
料理は、彼の担当だった。
炊きたてのお米と、少しの野菜と、目玉焼き。
何も特別じゃないのに、2人の朝に彼が作ったご飯というだけで、幸せの魔法がかかっていた。
麻薬だった。
食器を片し、軽い身支度を済ませたら、一緒に玄関を出て、違う道を曲がった。
そんな毎日だった。
これからもずっと、同じ玄関から外に出て、同じ玄関に帰ってくるんだろうな
私は無意識に、それでも確信に近い場所で、またしても錯覚していた。
「愛ちゃん」
彼はいつも私をそう呼んだ。
両手を広げて、こっちおいでと、優しく笑った。
やっぱり素直な私は、ご飯を食べた後のにゃんこのように、ゆっくりと甘えた。
「愛ちゃん」
私が彼の指を齧るたびに、彼の唇を啄むたびに、私は自分の名前を優しく浴びた。
耳が溶けそうだった。
私が息苦しさを感じ始めたのは、茹だるような真夏の熱帯夜だった。
気ままな彼は、そんな自分をいつも正当化していた。
気付いた時には、彼の周りには知らない女の子が数人いた。
触れるでもなく、ただ可愛がっていた。
「ぬいぐるみのような感じ」
そう彼は言っていた。
私はそんな彼が許せなかった。
私以外を可愛がる彼も、私以外に名前を呼ばれる彼も、彼に甘える私以外の女の子も、
全てが憎く、許せなかった。
私は深く傷付き続けた。
それでも私は彼を愛していた。
彼も私だけを愛していた。
お互いに、言葉にするでもないのにそれを知っていた。
だからお互いに甘えていた。
その時には既に絆されていたのだ。
別れを決心したのは10月の末だった。
本当は何も言わずに突然消え去るつもりだったのに、寂しさに足を絡みとられ、
中途半端に欠片を落としてきてしまった。
彼は私を引き止めた。
絶対に引き止められないと思っていたから、とてもびっくりした。
「帰ってきてよ」
彼は弱々しくそう呟いた。
優柔不断な私は何度も何度も何度も考えた。
私がいなくなれば彼が『ひとり』になることを知っていたから。
それでも、傷つくことの方が怖かった。
愛していたからこそ、離れるしかなかった。
「毎日悪口言いにきてやる」
彼は静かに頬を湿らせながら、
優しい声でそう呪った。
「愛してるよ」
また、耳が溶けそうになった。
「私もだよ」
私も呪い返してから、背の高い彼の頭をひと撫でして、そんなに重くない鞄を持って、玄関を抜けた。
生まれて初めて、玄関の鍵を閉めなかった。
ただ、ひたすらに泣いていた。
泣いて、泣いて泣いて、泣いて、
ふと我に返って、また寂しくなって
いつまでも泣いていた。
大人になると、声をあげて泣けなくなると誰かが言っていた。
それならこの時の私は、ひどく子供だった。
19歳の秋だった。