麻布十番の妖遊戯
 昭子と太郎がそのにおいにつられてむくりと体を起こす。二人の嗅覚はすこぶるいいのだ。

「ああ、このにおい。ぼた餅だね」

 昭子が更に鼻を近づけた。

「侍さんもこんぶ茶でいいですか」

 太郎が茶を淹れに席を立つ。

「あんこにこんぶ茶かい? 渋めの茶のほうが合いそうなものを」

 渋い顔をした侍に、「あんた、あたしが飲んでるものが見えないのかい?」と昭子が自分の湯呑みを持ち上げてみせた。

「ああ、こんぶ茶は昭子さんの趣味か。さすがだな。俺も丁度こんぶ茶が飲みたかったとこだよ。太郎、俺もそうしてもらおうかな」

 侍はすかさず昭子を褒めると台所に向かった太郎の背に、俺もこんぶ茶で頼むよ。と声をかける。太郎は返事こそしなかったものの、その背中は笑っていた。

 侍が自分が贔屓にしている饅頭屋で月一だけ作るぼた餅を買ってくるのは三人の間ではもう長いこと習慣化されていた。
 なぜ月一なのかと聞くと「知らん。ぼた餅の日は一日と決まってるそうだよ」とこういった具合である。

 侍本人のみならず、昭子も太郎もこのぼた餅を楽しみにしているのだ。
 侍が贔屓にしている店に顔を出すときのみ、この家は昼日中から現れる。

 その店の売り子の女子が侍はたいそうお気に入りのようで、何かと機会を見つけちゃあくだらない世間話をして顔を溶けた餅のようにドロロに綻ばせているのだ。

 食える分だけ一つ二つ買えばいいものを、見栄をはってたくさん買って来るものだから、昭子と太郎にもその分け前が入ってくる。

 一人でたくさん買って持ってたって食べきれるものじゃない。旨いものは気心知れた仲間と食べた方が何倍も旨くなるのを三人は知っているのだ。
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