愛と夢と…
自宅はよくある1LDKの普通のアパートだ。
元々は一軒家に住んでいたけど、中学生の時にここに引っ越してきた。
リビングと洋室一間しかないけど、
私とお母さんが同じ時間帯に2人でこの家にいることはまず少ないから、そんなに不便もしていない。
二階にある自宅の窓から明るい光が漏れていた。
この時間に電気が点いているのは珍しい。
階段を上がりながら、私は何とも言い表せない緊張を胸に感じていた。
お母さんと顔を合わせるのは一体何日ぶりだろう。
「ただいまぁ…」
ゆっくり扉を引く。
鍵のかかってない家に帰るのもしばらくぶりだ。
キッチンを通り抜け、奥のリビングの戸を引く。
「ただいま。」
クーラーの効いた涼しい風が私を包み込む。
そして、化粧をしていたお母さんと鏡ごしに目が合った。
「おかえり。」
お母さんの声を聞きながら私はその後ろを通りすぎる。
ソファに鞄を置く。
そのまま洗面所に行き手を洗った。
布団の脇に畳んでいた部屋着に着替え、シャツと靴下を洗濯カゴに放り込み、私はダイニングテーブルに腰かけた。
キッチンとリビングを繋ぐ戸を閉め忘れていたため、ダイニングテーブルからお母さんが化粧する様子が見える。
私は、頬杖ついて化粧をするその後ろ姿をじっと見ていた。
後ろ姿だけを見ると20代といってもおかしくない。
もちろん、正面から見ても本当に若い。
娘の私が言うのもなんだけど、歳をとることを知らないのかなと思ってしまうぐらいだ。
「何だか久しぶりね。最近どうなの?」
そんな私の視線に気付いたのか、お母さんはまた鏡ごしに私を見据えて言った。
「別に普通だよ、平凡。」
「そう。まあ、普通がいちばんだったりするわよね。」
そう言ってお母さんは軽く俯いて髪を結い始めた。
私は、お母さんの伏し目がちになったときの表情が小さい頃から好きなのだ。特に、憂いを帯びたような目が。
「今日は遅い日なの?もう19時だけど。」
「そう。今日は遅い時間からの貸し切りなのよ、だからお店も早く開ける必要がないの。」
「ふーん…」
お母さんは隣町の繁華街でお店を開いている。
繁華街といっても二分町のようなうるささはなく、どちらかといえば上品なところだ。
私たちがこの家に引っ越してきてからしばらくして、お母さんは知り合いの協力のもとお店を始めた。
もともと美人で人当たりも良かったお母さんのお店はすぐに繁盛したようで、そこから私との入れ替わり生活が始まったのだ。
さすがに私がまだ中学生の時は仕事を抜けてちょくちょく様子を見に来てくれていたけど、最近では完全に入れ替わりになった。
私が学校から帰る頃にお母さんは出勤して、学校に行く頃に家に帰ってくる。
ここ数日は顔を合わせることすらないぐらい完全ななすれ違い生活だった。
「私、そろそろ行くわね。はい、これ。体に気をつけて。」
髪をきれいに結い美しく化粧を施したお母さんは、私のいるダイニングテーブルの上に茶封筒を置いた。
中は見なくても分かる。
1週間分の私の食事代、一万円。
正直そんなに使わない。
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
そしてお母さんは、外の世界に吸い込まれるように消えていった。
お母さんはとにかくいつも働いている。
全て私を一人前に育てるためだという。
お父さんがいなくなってから女手ひとつで高校まで入れてくれたお母さんに感謝はしている。
ただ、正直お母さんのようになりたいかと言われたら分からない。
ひとりの男を愛し、しかし、その男に裏切られてもなお、結局は男に媚びるしか生きていく術のないような女には私は絶対になりたくない。
「…誰かを愛しても、いつか裏切られる。」
1人になった部屋で、私はポツリと声に出してみた。
私は絶対に人を好きにならない。
いや、そもそも好きになれないだろう。
愛が永遠じゃないことを私は知っている。
そんないつ終わるかわからないもののために貴重な人生の一瞬を無駄にしたくない。
なんだかすごく虚しくなった。
心が砂漠のように乾いてしまった。
私は冷蔵庫からミネラルウオーターを取りだし一口飲んだ。
それは、体の奥から染み渡るように広がっていったが、私の心が潤うことはなかった。
ふと思い立って洗面所の鏡に自分の姿を写してみた。
「…やっぱり全然お母さんに似てない。」
お母さんは誰が見ても美人でたおやかで素敵な女性だ。
決して派手ではないけれど日本人らしい端正なその顔立ちは、見るものの目を惹きつけてしまう魔力のようなものすらも感じさせる。
そんなお母さんに対して私の顔は、どちらかといえばハッキリした顔立ちだ。
小さい頃よく翔くんが私のことを白雪姫と呼んでいたことがある。
白雪姫に似てるかどうかは分からないけれど、たしかに肌が白かったり唇の血色が良くて赤っぽかったりするところはある。
目は大きいと言われることが多く、瞼の弧に沿って平行な二重幅が描かれている。
鼻は細くて小さい。ついでに口も小さめだ。
私は頬にそっと手を添える。
そして、鏡の中の自分と目を合わせたまま、その手をゆっくりと顔のパーツそれぞれに順番に触れさせた。
口、鼻、目……。
形をしっかりと確かめるように触れていく。
「この顔が“可愛い”のか…」
やはり自分ではピンとこなかった。
私の思う美人は後にも先にもお母さんだけだし、憧れるのはお母さんのような上品で日本人らしい美しさだ。
それに、私のこの顔はお父さんにとても似ている。
嫌いな人と瓜二つの自分の顔を好きになれるわけがない。
だから、顔を褒められても素直に喜ぶことができないのだ。
私は「はあ…」と小さくため息をついた。
なんだか今日は珍しくセンシティブな気分になっているみたい。
「…吉沢くんも1人なのかな。」
どうしてか不意に吉沢くんのことを思い出した。
彼もこんな気持ちになることはあるのだろうか。
私はソファに移動し、そのまま崩れ落ちるようにそこに身を預けた。
そして、朝まで眠り続けた。
元々は一軒家に住んでいたけど、中学生の時にここに引っ越してきた。
リビングと洋室一間しかないけど、
私とお母さんが同じ時間帯に2人でこの家にいることはまず少ないから、そんなに不便もしていない。
二階にある自宅の窓から明るい光が漏れていた。
この時間に電気が点いているのは珍しい。
階段を上がりながら、私は何とも言い表せない緊張を胸に感じていた。
お母さんと顔を合わせるのは一体何日ぶりだろう。
「ただいまぁ…」
ゆっくり扉を引く。
鍵のかかってない家に帰るのもしばらくぶりだ。
キッチンを通り抜け、奥のリビングの戸を引く。
「ただいま。」
クーラーの効いた涼しい風が私を包み込む。
そして、化粧をしていたお母さんと鏡ごしに目が合った。
「おかえり。」
お母さんの声を聞きながら私はその後ろを通りすぎる。
ソファに鞄を置く。
そのまま洗面所に行き手を洗った。
布団の脇に畳んでいた部屋着に着替え、シャツと靴下を洗濯カゴに放り込み、私はダイニングテーブルに腰かけた。
キッチンとリビングを繋ぐ戸を閉め忘れていたため、ダイニングテーブルからお母さんが化粧する様子が見える。
私は、頬杖ついて化粧をするその後ろ姿をじっと見ていた。
後ろ姿だけを見ると20代といってもおかしくない。
もちろん、正面から見ても本当に若い。
娘の私が言うのもなんだけど、歳をとることを知らないのかなと思ってしまうぐらいだ。
「何だか久しぶりね。最近どうなの?」
そんな私の視線に気付いたのか、お母さんはまた鏡ごしに私を見据えて言った。
「別に普通だよ、平凡。」
「そう。まあ、普通がいちばんだったりするわよね。」
そう言ってお母さんは軽く俯いて髪を結い始めた。
私は、お母さんの伏し目がちになったときの表情が小さい頃から好きなのだ。特に、憂いを帯びたような目が。
「今日は遅い日なの?もう19時だけど。」
「そう。今日は遅い時間からの貸し切りなのよ、だからお店も早く開ける必要がないの。」
「ふーん…」
お母さんは隣町の繁華街でお店を開いている。
繁華街といっても二分町のようなうるささはなく、どちらかといえば上品なところだ。
私たちがこの家に引っ越してきてからしばらくして、お母さんは知り合いの協力のもとお店を始めた。
もともと美人で人当たりも良かったお母さんのお店はすぐに繁盛したようで、そこから私との入れ替わり生活が始まったのだ。
さすがに私がまだ中学生の時は仕事を抜けてちょくちょく様子を見に来てくれていたけど、最近では完全に入れ替わりになった。
私が学校から帰る頃にお母さんは出勤して、学校に行く頃に家に帰ってくる。
ここ数日は顔を合わせることすらないぐらい完全ななすれ違い生活だった。
「私、そろそろ行くわね。はい、これ。体に気をつけて。」
髪をきれいに結い美しく化粧を施したお母さんは、私のいるダイニングテーブルの上に茶封筒を置いた。
中は見なくても分かる。
1週間分の私の食事代、一万円。
正直そんなに使わない。
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
そしてお母さんは、外の世界に吸い込まれるように消えていった。
お母さんはとにかくいつも働いている。
全て私を一人前に育てるためだという。
お父さんがいなくなってから女手ひとつで高校まで入れてくれたお母さんに感謝はしている。
ただ、正直お母さんのようになりたいかと言われたら分からない。
ひとりの男を愛し、しかし、その男に裏切られてもなお、結局は男に媚びるしか生きていく術のないような女には私は絶対になりたくない。
「…誰かを愛しても、いつか裏切られる。」
1人になった部屋で、私はポツリと声に出してみた。
私は絶対に人を好きにならない。
いや、そもそも好きになれないだろう。
愛が永遠じゃないことを私は知っている。
そんないつ終わるかわからないもののために貴重な人生の一瞬を無駄にしたくない。
なんだかすごく虚しくなった。
心が砂漠のように乾いてしまった。
私は冷蔵庫からミネラルウオーターを取りだし一口飲んだ。
それは、体の奥から染み渡るように広がっていったが、私の心が潤うことはなかった。
ふと思い立って洗面所の鏡に自分の姿を写してみた。
「…やっぱり全然お母さんに似てない。」
お母さんは誰が見ても美人でたおやかで素敵な女性だ。
決して派手ではないけれど日本人らしい端正なその顔立ちは、見るものの目を惹きつけてしまう魔力のようなものすらも感じさせる。
そんなお母さんに対して私の顔は、どちらかといえばハッキリした顔立ちだ。
小さい頃よく翔くんが私のことを白雪姫と呼んでいたことがある。
白雪姫に似てるかどうかは分からないけれど、たしかに肌が白かったり唇の血色が良くて赤っぽかったりするところはある。
目は大きいと言われることが多く、瞼の弧に沿って平行な二重幅が描かれている。
鼻は細くて小さい。ついでに口も小さめだ。
私は頬にそっと手を添える。
そして、鏡の中の自分と目を合わせたまま、その手をゆっくりと顔のパーツそれぞれに順番に触れさせた。
口、鼻、目……。
形をしっかりと確かめるように触れていく。
「この顔が“可愛い”のか…」
やはり自分ではピンとこなかった。
私の思う美人は後にも先にもお母さんだけだし、憧れるのはお母さんのような上品で日本人らしい美しさだ。
それに、私のこの顔はお父さんにとても似ている。
嫌いな人と瓜二つの自分の顔を好きになれるわけがない。
だから、顔を褒められても素直に喜ぶことができないのだ。
私は「はあ…」と小さくため息をついた。
なんだか今日は珍しくセンシティブな気分になっているみたい。
「…吉沢くんも1人なのかな。」
どうしてか不意に吉沢くんのことを思い出した。
彼もこんな気持ちになることはあるのだろうか。
私はソファに移動し、そのまま崩れ落ちるようにそこに身を預けた。
そして、朝まで眠り続けた。