愛と夢と…
「もうすぐだよ、あの角曲がったあたり。」
そして、角を曲がったところにお城のように立派な邸宅が建っていた。
外壁は赤褐色のおしゃれなレンガで、庭はそこらへんの小学校の校庭半分ほどはあるのではないだろうかと思うぐらい広い。
高級住宅街のなかでも明らかに他を圧倒するほどの豪邸だった。
門の鍵を開けようとする吉沢くんのスラリとした長い指を何となく見ていると。
「……歩夢?」
よく通る声が少し遠くから聞こえる。
吉沢くんと私はその方向へほぼ同時に顔を向けた。
「おお、凛じゃん。」
「やっぱり歩夢だー!めっちゃ久しぶり!」
“凛”と呼ばれたその人は小走りでこちらへ向かってきた。
「いつぶりに帰ってきたの?」
「この家出てから初めてだね。」
「そうなんだ!会いたかったんだよ。」
目の前の“凛”さんは本当に嬉しそうな表情をしている。
普段の彼女がどんな人かはもちろん分からないけれど、とにかく今すごく喜んでいることは初対面の私でも分かるぐらいだ。
無邪気な笑顔を見せていた“凛”さんはやっと私の存在に気づいたのか、
「ねえ、この方は…?」
と、驚きながらも恐る恐る吉沢くんに尋ねた。
「吉沢くんと同じクラスの笹本愛菜です。」
吉沢くんに紹介される前に私は自己紹介をした。
「え…笹本さんってもしかして…白雪姫?」
「「……は?」」
“凛”さんの発言に私と吉沢くんが同時に声をあげた。
「私の学校では“白雪姫”っていう愛称で有名です。綺麗な黒髪で肌が白くて目がぱっちり、頬も唇もほんのり紅くてまるで白雪姫そのものだって。みんな言ってますよ。」
私の知らないところで予想外に自分が有名になっていたことに対する驚きと、やっぱり私は白雪姫に雰囲気が似てるのかーという妙な納得感など、色んな感情で頭がぐるぐるする。
吉沢くんもただただ黙って話を聞いている。
「私、西高なんですよ。歩夢たちの通ってる高校と同じ町。だから、電車とかで笹本さんのことみんな見かけるんです。そしてその美しさに衝撃を受けるっていう。」
「あー…たしかにそう言われてみれば白雪姫っぽいかも。性格は全然ちがうけど。」
さっきまで私と一緒に驚いていたはずの吉沢くんが何故か“凛”さんの言葉に納得している。
そして、余計な一言まで付け加えた。
「それにしても白雪姫のお名前を知ることができて本当に嬉しいです!みんなに自慢できそ。あの!愛菜さんって呼んでも良いですか?」
「あ、どうぞ…」
「わあ!ありがとうございます!私は西高1年の高木凛といいます。凛と呼んでください。ちなみに歩夢の幼馴染です。」
なんとなくそんな感じはしてたけど、凛ちゃんと吉沢くんは近所に住む幼馴染だそうだ。
それにしても凛ちゃんは本当に吉沢くんに懐いている。
おそらくしばらくぶりの再会なのだろう。
「凛、久しぶりに会ったのに悪いんだけど、今から愛菜とやらなきゃいけないことがあるんだ。だから今日はこれ以上立ち話してらんないんだよ。」
吉沢くんのこの言葉に、凛ちゃんは分かりやすいぐらい悲しい表情を浮かべた。
「そんな…。ねえ、それって私がいたら邪魔ってこと?」
「んー、どっちとも言えないな。」
「久しぶりに会ったのにこれでお別れは嫌だ。次いつかえってくるかわからないんでしょ?ねえ、私も一緒にいたい。」
吉沢くんは少し難しい表情を浮かべた。
よく見なきゃわからないぐらいだけど、眉間に小さな皺も寄せている。
きっと色々なことを一気に考えているのだろう。
凛ちゃんは今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で吉沢くんを見つめている。
吉沢くんと凛ちゃんそれぞれ交互に目をやる。
険しい顔をしている人と泣き出しそうな顔をしている人。
私はとうとう居たたまれなくなって、
「編曲するだけだし別に良いんじゃない?」
と2人の間に割って入った。
吉沢くんは少し驚いたように一瞬目を見開きつつも
すぐにいつも通りの表情に戻り、
「…愛菜がそう言うなら良いか。」
「やったー!最高!」
吉沢くんのその言葉に、凛ちゃんは明るい声で喜びをあらわにしていた。
私と吉沢くんに凛ちゃんを加えた3人は、門を通り抜け家の中に入った。
外観に負けず劣らず、家の中も豪勢だった。
しかし、そこにはその豪勢さと相反する静けさもたしかに存在していた。
「歩夢の家久しぶり。なんかドキドキする。」
まるで知らないところに遠足に来た子どものように凛ちゃんの声は弾んでいる。
私の前でひょこひょこ揺れるポニーテールが可愛い。
まるで子猫のように吉沢くんについてまわっている。
長い廊下を渡り、階段を上がる。
すると、何となく見たことのある扉があらわれた。
「この扉って…」
「防音仕様のやつ。」
「…やっぱり。」
実は、今のアパートに引っ越す前に住んでいた一軒家には、お父さんが私のために作ってくれたピアノを練習するための防音室があった。
その部屋の扉と全く同じものだったのだ。
「私が前住んでた家にも防音室あったの。」
「へえ。本格的じゃん。」
吉沢くんが扉を開ける。
グランドピアノとアップライトピアノが一台ずつ。
大きな2つのスピーカー。
そのほかにも立派な機器がたくさんあった。
そして、奥のガラス棚にはトロフィーや盾のあまた。
「こんな部屋あったの知らなかった!」
凛ちゃんはさっきよりもテンションが上がったのか、部屋のなかを興味深く見て回っていた。
「すごいね。ここでピアノの練習してたの?」
「そう。学校以外はこの部屋にいたことが多かった。」
「本当に一生懸命だったんだね。」
「ピアノは好きだったから。」
そう言った吉沢くんは、奥の方にあるパソコンの前に向かい椅子に腰かけた。
凛ちゃんは相変わらず部屋のなかをウロウロしている。
吉沢くんがパソコンを動かしている間、
私はガラス棚のトロフィーや盾を眺めていた。
その数の多さが吉沢くんの凄さを物語っている。
トロフィーや盾の印字を見ると第1位しかない。
今の彼からは想像もつかないけど、本当に一生懸命練習して努力してたんだろう。
なのに何故辞めてしまったのだろうか。
ご両親とのことが何か関係しているのだろうか。
トロフィーや盾は左から古い順に並んでいた。
いちばん右にある最も新しいトロフィーの印字に目をやる。
“全国ジュニアピアノコンクール”
私はこの大会の名前に見覚えがあった。
頭のなかで火花が瞬く間に散ったような感覚に陥った。
「準備できたからこっち来て。このパソコンのソフトで編曲するから。」
自分の座っている隣をポンポンと指し、吉沢くんが私を呼んだ。
私の口のなかはカラカラに乾いていた。
心臓が激しく音をたてている。
彼の隣に座って色々説明を受ける。
しかし、全く頭に入ってこない。
「ねえ、大丈夫?」
そんなおかしな様子に気付いたのか、吉沢くんが私の顔を覗き込む。
彼の視線と私の視線がぶつかった。
私は顔を背けようとしたが視線が絡みついてほどけない。
吉沢くんの瞳は真っ直ぐ私を射ていた。
「いちばん右のトロフィー…」
「ああ、あれ。最後に出たコンクールかな。たしか中1だと思う。」
「優勝したの?」
「一応。あのコンクールさ、俺ともう1人優勝した人がいたんだ。」
「…普通1人だよね?」
「うん。ただ、どうしても1人に絞れなかったらしくて特例で。音楽室で愛の夢を弾いた子がいるって言ったじゃん?あれ、その時の優勝者なんだよね。」
吉沢くんは柔らかく微笑んだ。
瞳も優しく揺れている。
「たしか同じ年だったと思う。本当に素晴らしい演奏だったんだ。奇しくも俺も愛の夢を選曲してたんだけど、正直負けたと思ったよ。それぐらい凄かった。他人の演奏を聴いて泣いたのはあれが最初で最後。」
「吉沢くんがそう言うってことは余程すごいんだね。」
「うん。心を鷲掴みにされて揺らされまくるような音だった。その子変わっててさ、トロフィーなんてもちろん1つしか用意されてなかったんだけど、トロフィーいらないから花束だけ欲しいって言って花だけ持って行ったんだよ。」
普通トロフィーの方欲しいよね。
そう言っておかしそうに笑う吉沢くん横目に私はある確信を得た。
「なんで辞めたの?ピアノ。」
「んー…」
私の問いに吉沢くんは数秒黙った。
しかし、すぐに意を決したように口を開いた。
「手首を壊したんだよね、腱鞘炎。弾き方が悪かったのにそれをちゃんと強制せずにがむしゃらにやってたらダメになった。」
「腱鞘炎……」
「そう。さっきのコンクールは何とか出場して、その後はどんどん悪くなる一方。」
「でも、今は弾けてる。」
「それなりにはね。ただ、前みたいに上を目指すほどのものはできない。親もピアノが弾けない俺には興味なかったみたいだよ。絶望してたね。」
吉沢くんは顔色ひとつ変えない。
ただ、事実を淡々と語っている。
「まともに弾けなくなった俺に親は冷たかったよ。んで、俺もそんな親に絶望したわけ。お互い絶望だね。そしたらちょうど高校入る時父親の海外異動が決まって、母親はそれについて行った。そして俺は家を出た。そんな感じかな。」
話し合えた吉沢くんは、憂いを帯びた瞳を揺らし切なくふっと笑った。
「結構複雑でしょ?」
「んー…色々大変だったんだなーって思った。」
すると、吉沢くんは大きな手で私の頭をガシッと掴んだ。
そして、わしゃわしゃと搔き撫でた。
「え、なになに。」
突然のことに驚く私の瞳を吉沢くんは再びじっと見つめ、さらに搔き撫でた。
「やっぱり愛菜はそう言うと思った。」
「どういうこと?」
「大抵のやつはさも分かったように同情する。でも愛菜は絶対そんなことしないと思った。」
「まあ…そんな表面じみたことしたくないし。本人じゃなければその大変さはわからないしね。」
「俺には愛菜のそういう、良い意味での冷たさが心地良いんだよね。さすが他人に興味ないだけあるわ。」
「…最後の一言が余計なんだけど。」
吉沢くんに触れられている髪から、彼の体温を感じる。
なんだかとても歯痒い気持ちになった。