愛と夢と…

せっかく玲華ちゃんが急いで渡してくれたのにいつまでも吉沢くんの分を持ってたのではなんだか申し訳ない気分になってくる。

昼休みに理央とお弁当を食べて、私はすぐに吉沢くん捜索に取り掛かった。


吉沢くんのいそうなところってどこだろう。

定番の保健室とクラスのベランダは確認したけどいなかった。
吉沢くんのことだから出入り禁止の屋上にも飄々とした様子でいるなんてこともあり得るな思い、屋上にも行ってみた…いや、正式には行こうとしてる手前で立ちすくんでいる。

やっぱりデカデカと『立入禁止』と書かれているとどうしても足がすくむ。
私はそこまでの勇気はないし意志も強くない。

やっぱりやめよう。
危ない道に自分から突き進むのはやめよう。

昼休み終了を知らせる予鈴も鳴ったのでそのまま教室に戻ろうと屋上へ繋がる階段へ背を向けた。



そのとき________


まるで、清流のように滑らかな心地良い音の粒が、私の体に染み渡った。

どこかからピアノの音がする。

足が勝手に吸い込まれるようにその方向へと向かう。

階段を降りて左へ曲がる。
どんどん音が明瞭なものになってくる。

私は、突き当たりの音楽室の前で立ち止まった。
正確には、"動けなくなった"。


繊細で上品で美しい。
柔らかくて優しい音色。

一方、悲しくて切ない。
情感溢れる音色。

こんなに素晴らしい音を私はこれまでにおそらく聴いたことがない。


こんなにも人の心を揺さぶる、
極端に言えば
魂を持っていかれそうになるほど魅力的な音。


……一体、誰が弾いているのだろう。



最後の一音が鳴り響いた。
どれだけの時間が経ったのかは分からない。

この素晴らしい音の持ち主に会いたい。


ゆっくり深呼吸をする。
そして、私は音楽室の扉にそっと手をかけた。


控えめに扉を開けると_____



「嘘……」



私が思わず発した言葉に、その人物は顔をあげた。



「吉沢、くん…?」



また、その場から動けなくなった。

音楽室にはどう見ても吉沢くんしかいない。
それに、ピアノに向かっているのは正真正銘吉沢くんだ。


「あれ、どうしたの?」

「いや…あの、えっと…」


どうしよう。
聞きたいことがありすぎる。

でも、それよりもまず。



「なんか色々びっくりだけど、でも、吉沢くんのピアノ…本当に感動した。この気持ちをもっとちゃんと伝えたいけど、うまい言葉が見つからなくてね、えっと…」

「うん。」

「すごく幸せな気持ちとすごく辛い気持ちでいっぱいになった…私、どうかなっちゃうかと思った…」

「うん。」


私の支離滅裂な言葉にも、吉沢くんは時折頷きながら聞いてくれた。

心なしかいつもより瞳が柔らかい感じがした。


「笹本さん、気付いてる?」

「…え?」


吉沢くんが小さく微笑んだ。

いつもの妖しい笑みじゃない。
本当に心からの柔らかい笑顔だと感じた。



「泣いてるよ。」



そう言うと、吉沢くんはピアノ椅子から立ち上がった。
そして、扉を入ったところで立ち尽くしている私の前まで来ると。


「ほら。」


吉沢くんの長くて綺麗な指が私の涙を掬う。
彼は少し困ったように、でも、優しい笑みを浮かべた。



「あ………」

「笹本さんってこんなに感情動くことあるんだね。いつも落ち着いてるのに。」


吉沢くんは悪気なく鼻につくことをよく言う。


「私だって普通の人間だもん。感動するものにはするよ。」

「なんか意外だったな。いつもシラーっとしてる笹本さんが涙流しながら一生懸命気持ち伝えてきて。」

「お願い…記憶抹消して…」



目にうっすら残っている涙をゴシゴシぬぐいながら、私は顔が真っ赤になるのを感じていた。

顔が…熱い。恥ずかしい。


これ以上何も言えずただ顔を伏せることしかできない私。

音楽室の時計の音だけがしばらく私たちの間に鳴り響いていた。



「何で俺がピアノ弾けるか聞かないの?」



吉沢くんの言葉がそんな静寂を破った。

彼の瞳は先ほどとは打って変わり、
またいつものように不思議な雰囲気を醸し出していた。



「何でって…習ってたからじゃないの?」

「そうだよ。でも、それにしても上手すぎると思うでしょ?」

「なにそれ、自分で言っちゃう?」


真面目な顔してそんなことを言ってくる吉沢くんの様子に思わず吹き出してしまった。

吉沢くんがどういう経緯でこんなにピアノが上手なのかはたしかに気になるけど、正直経過はどうでも良い。

私が気になってるのはピアノが上手という"結果"だけだ。



「素晴らしい才能があって一生懸命努力した。違う?」



どんな人だってそう。
ピアノだけじゃない。

何かを極めるためには、
才能とそれ以上の努力が必要になる。

きっと吉沢くんのピアノの実力も、
その恵まれた才能とその何倍もの努力を重ねた結果なのだと思う。




「そうだね、違わない。その通りだよ。」

「でしょ?」



吉沢くんは小さく笑った。
私も同じように笑った。



「吉沢くん、最近人間っぽい。」

「"俺だって普通の人間だよ"?」



ついさっきどこかで聞いたフレーズを繰り返した吉沢くん。



「違うよ、前はもっと飄々としてた。本心がどこにあるのか分からなくて何を考えてるかも分からなくて、どこ見てるかも分からなかった。」

「今はわかるの?」

「今もよくわからない。でも、前よりは本当に少しだけ分かる。吉沢くんが少し人間らしくなったから。」

「"人間らしく"か。確かにそうかもね。俺、人間じゃないかも。」


本気なのか冗談なのか分からないことを真顔で言う吉沢くんの本心は今でも普通に分からない。


分からない。

分からないからこそ、
吉沢くんを知りたいと強く思う。

吉沢くんが何に喜び、何に悲しみ、何を嫌い、何を楽しいと感じるのか。



吉沢くんがじっと私の瞳を見つめる。
その不思議な力に私の瞳は逃げ場を失った。

強い力で"捕らえられて"いるのではない。
私の瞳が吉沢くんから"離れられない"のだ。


もう、諦めよう。


吉沢くんの顔が少しずつ近づいてきたのを最後に、私はゆっくり瞳を閉じた。
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