うるの黄昏
■再会



さやさやと鳴る青い紅葉が眩しい。

――和歌山、六法殿。



「無理じゃ」

初球は軽くと思っていたがやはり無理だった。
比叡山の〝綺羅〟と出会うべくして出会って――あれ以来、なんやかんやと裏高野の仕事が重なり顔を合わせてはいないが――、一月弱経った頃。

夏休みも終わるという頃、閏乃は暇を見つけて廻爾の居る六法殿に駆け込んだ。
律義に正座をしながら、空しか見えない窓枠に立つ廻爾を見る。
世間は認知していない五重塔の最上。
古臭くて歩く度に軋むが、眺望だけは最高なのである。

「友好の使者に選ばれた者がいきなり弱音を吐くとは何事か。情けない」

弱りきった閏乃に呆れながらも、廻爾は愉快といった様相を隠さず返した。

「しかし相手方の娘もかなりの強情者。お前には骨が折れるかもしれないね」

折れるどころか砕かれる勢いだ、と閏乃が叫ぶが、やはり可笑しいと廻爾は嗤った。
しかしまあ閏乃にしてみればふざけた話である。

初対面であり、尚且つ今まで敵対してきた宗派同士。
それがこの二十一世紀。
仲良くしようとの仏の示唆があったのかどうか知らないが、仲良しあいご月間とばかりに両派が折れたのだ。
互いに友好使節に選ばれたのなら、腹の中はどうあれ仲良くすべきなのではないか。

(――まぁ、何百年何千年続いた血生臭い確執が一日で解消されるわけないけどね)

解ってはいるのだ。
もしかしたらあの綺羅という少女は、過去に手酷く裏高野の者にやられた経験があるのかもしれないし。

(……いやだからって俺に当たらなくてもいいだろ)

考えれば考えるほどまとまらない。
頭では解っていても、あの理不尽が湧きあがってくるのだ、腹の底からぐつぐつと。
それに、彼女が言った言葉は事実だ。
もしあの状況下で彼女が居なければ、〝鬼〟に喰われていたのは確かに本物の少女だったかもしれないから、だからこそ。

腹が立つのである。


「……まあ彼女は産まれた頃より比叡山にて三幹(心技体)を磨いていたと聞いたよ。口下手なお前が敵わぬのも無理はない」

珍しく廻爾が慰めの言葉を掛けてきた。

「いきなりなに」

なにか裏があるのではないかと疑ってしまう自分が悲しい。

「なにもないよ。どうだね閏乃。久々に私の料理でも食べて行くかな。檀家がいい鰻を持ってきてくれてね」

ますます怪しい。

「脂が乗っていて旨そうだった。お前が食べれるのはこれが一回きり、と言わんばかりの上物だよ」

怪しい。
あやしいが、正直、鰻はすてがたい。

「あっさりとひたしに交ぜてもいいが、あの脂の乗りよう、勿体無いね。残暑も厳しくなってくるし、精をつけるためにひつまぶしでも拵えようか」

あやし……。

「お前はどうする、閏乃」

廻爾の胡散臭い笑み。

あやしい、のに。

「ごちになります」

俺はやっぱりバカだ。





ガタガタと揺れるバスの最後部。
大きなボストンバックを抱えた若い男子がひとり、疲れきった視線を流れる景色に止めていた。
古いバスであるためか、錆びた窓枠の向こうでは音もなく山の木々が素早く視界から逃げていく。
鼻をつく清流と緑の香りが清々しい。
しかし面河村行き最終便バス、唯一の乗客である彼――辻閏乃の気分はそんなものではは癒されはしなかった。

「……なぁにが、鰻はうまいか?…だ!」

――夕刻。
閏乃は六法殿寺から遥か離れた四国に居た。
面河渓谷。
美しい水色の流れが広がる知る人ぞ知る名所である。
渓谷の傍は夏ですら肌寒いというが、生憎閏乃が向かっているのは面河渓谷ではない。
その面河渓谷の流れが続く小村。
廃校寸前の小学校がひとつと、農業で生活を営む人々の家がぽつぽつと広がるだけの、どこか懐かしい郷愁の場所である。

(三時間前までは和歌山に居たのに……)

――六法殿にて鰻を貪って数分と経たず廻爾から切り出された話は、弁解しようもないほど明白な〝お勤め〟の話であった。

『四国に化け猫が出るとか』

たったそれだけ。
それだけを聞かされ、有無を言わさず廻爾の弟子共に裏高野山所有のヘリコプターに押し込まれたわけである。
楽しい楽しい夏休みは本職である〝お勤め〟でほぼ七割が潰れ、他二割といえば休息と修行、各地に廻る移動時間
――そして。

(大体、比叡山との平和協定になんで若僧ふたりが代表されなきゃならんのだ)

そして、比叡山との交流を深めるべく、双山との間で起こった過去の争い事を勉強しろ、と無理矢理各地の寺に閉じ込められたのが一割。
過ごせる筈の十代の青春はどこへいったのか。
尋ねて答えてもらうものでもないのだが、閏乃の苦悩は尽きそうにない。

そうこうしている内にバスが停まった。
しかし目的の小村はまだ先の筈である。
急停車に近かったそれに、ずり落ちたボストンバックを慌てて抱え直す。
さやさやと辺りは暗くなり始めたのを横目に、閏乃は首を傾げた。

「お客さん、すみませんが降りて貰えますかね?」

そんなまさかのサザエさんである。

「え、なんで」

思わず敬語も忘れて問い掛けてしまった。

「この先、面河村に入るからさ」
「……俺、そこに行きたいんですけど」

つつつとボストンバックを抱えたまま、閏乃は運転席まで歩み寄った。
ざわざわとしなる木々の葉がいやに耳に突く。
焦燥しきった顔の運転手は渋々と口を開いた。

「君は知らないのかもしれないけどね、最近じゃもう、面河村に近づく子なんて居ないよ。物騒だからね」

知ってるよ。

「ここ一ヶ月で四人も死んだよ。それも人間の仕業じゃないと妙な噂ばかり流れてね。おかしなことに村人はなにも言わないし、警察も匙を投げたくらいだから」

(……四人)

随分と死んだ。
何故、一人目が喰われた時点で託僧を寄越さなかったのか。

(上の連中は相変わらずルーズですなあ)

ふと、ここ数ヶ月会っていない顔を思い出した。
一体なにをしているのか、と、思うより早くバスの運転手が口を開く。

「あんた、なにしに来たのか知らんけど……」

運転手が面倒だと言わんばかりに閏乃を見上げる。
行くのはやめろ、と言いたいらしい。
いやまあ、行かなくて済むなら俺も行きたくないんです、ほんと。

「……でもねぇ、行かなきゃならん時もあるんです。人間だもの」







日本の闇はそら恐ろしく、深く奥に伸びた遺骸のようだと、昔の詩人が言ったか言わなかったか。

「言ってないよね」

閏乃はそんな闇の中に居た。
バスを降りて歩き始めること、そろそろ一時間弱。
実は面河小村は次のバス停であることを聞き、このあばら道を真っ直ぐ進めば着くと言われ、ならば早いと意気揚々に繰り出したはいいがまさかの道のり。
平坦だったのは最初の数分で、あとは自分が乗ってきたバスがせいぜい一台通れるくらいの狭い道。
右は山に続く林で閉ざされ、左といえば随分前から崖である。
それも陽が暮れた今、肉眼ではなにも見えないほど深い崖である。
ガードレールはあるが、錆びていて役に立ちそうにない。
一番痛かったのは陽の落ちが早くなっていたことである。
観光地として有名な景色の堪能すら出来ないとは何事か。

(しかし奥地と言ったって事件が起きる前は普通の村で観光地だったんだから)

目安としてはもうそろそろ着く筈である。
幸い、秋月の柔らかな光があることが救いではあるし、山道を歩くのには慣れているため、さして問題はなかった。
人が闇に視る得体の知れないものを閏乃は知っていたし、知っているからこそ恐怖心もない。

(着いたら先ずは宿……)

本山から村へ通達はいってる筈だし、宿探しにそこまで時間はかからないだろう。
とはいえ、果たして十分に機能している宿があるかどうかだが。

〝鬼喰い〟の勤めを果たす者には、危険を犯す代償として他僧より待遇がいいという特典がある。
長引きそうな仕事ならば、託僧が派遣された場所での寝泊まりに不自由しないよう、本山からその地区へと達しが行くし、勤めに支障が出るようなら橋一本封鎖するのすら辞さない絶対的な権力すらある。
一般市民には知られてはいないが、此処、にっぽん。

他国と比べ、土地自体に根づいた変化やら物ノ怪やら多数生息している〝アヤカシ大国〟である。
危険度はそれぞれだが、人間社会が突出してきた今、ヒトを恨まぬ人外など無きに等しくなってきた。
それらの毒牙が無知な人間達を脅かさぬよう、閏乃が籍を置く裏高野を始め、双頭として敵山である比叡山、その他、対妖怪の機関は数多く存在するわけで――当然、それらは国からの絶対的な認定と協力を得ている。

(今まで敵対してきた比叡山と裏高野が協力体制に入るとなっちゃ、国のほうも処理が大変だろうなぁ……)

国の機関が聞けば余計なお世話であることをぼんやり考えていると、小さな石に躓いた。
ざわざわと鳴る頭上の木々の影が顔にかかり、少しだけ視界が暗くなる。

(……まあ今はこんなんこと考えてる場合でもない、か)

なにより今は面河の化け猫を退治しなければ。



『村人はなにも語ろうとしない――』

バスの運転手の言葉が引っかかる。

(おかしい。どう考えたっておかしい。相手が化け猫だとしてもひとりくらいはなにか喚く筈だし……)

詳しい話はなにひとつ知らないが、四人の犠牲者に化け猫。
もしかしたら、ただの妖怪事件じゃないのかもしれない。

(結論づけるのはまだ早い。とりあえず早く村に着いてゆっくりしよう……)



――ザザザザッ。

その時だった。
すぐ真横の林から木々を掻き分ける音が響いたと思えばそれは猛スピードでこちらに向かっているようである。
野犬か猫かはたまた猪か、或いは――「怪」か。
閏乃としては道草をくわず大至急柔らかな布団で体を休めたいところではあったが。

「……そうは問屋がおろさない」

ぼそりと呟き、ボストンバックを肩から下ろす。
脚を取られやすい砂利を気持ち平らに均らして、葉擦れの音が止むのを待った。

ザザザザザッ。

笹竹が根本を揺らされざわざわと鳴いている。

(もう少し)

あと八メートル。

ザザザザッ。

あと五メートル。

(音だけ聞けば単体。こうも早く出てくるなんて、よっぽど腹空かせてやがるな)

腹が空いてるのは閏乃も一緒だが、ここは我慢、である。
じわじわと近付いてくる気配は明らかに生物。
ただし動物でも人間でもない。
全身の穴という穴が収縮し、ぞわりと項に鳥肌が立つ。

(村に入る前に仕留められるなら)

村で調査する手間も省けるわけで。

(よし、やる気出てきた)

ザザザザッ。

距離が詰まってくる。


ザッ。



「……っ!」

暗闇に慣れた視界に小葉が散る。
相当な数が散ったそれらを全身に浴びながら、閏乃は頭上一メートル弱の位置に飛び出した影へと飛び上がった。

「そんなに急いで……」

月を受けて、閏乃には見向きもしていない状態の影に素早く錫杖を振り上げる。

「どーこ行っく、の!」

ド、と振り翳した錫杖から振動が伝わる。
細く華奢な骨と肉の感覚。
まさに猫であるに相応しい。

――筈だった。


< 10 / 15 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop