うるの黄昏
錫杖で叩き落とした化け猫はしかし、地面に着地した途端素早く飛び上がり閏乃目掛けて棒状のなにかを振り上げてくる。
その際に揺れたスカートの輪郭が月に反射してくっきりと視界に入り込み、閏乃はぎくりと肩を強張らせた。
(えっ)
跳躍して猫を叩き落とし、既に落下の段階に陥っていた閏乃は目をしばたかせる。
(スカート?)
猫の手には棒状のなにか――互いに振り上げた錫杖がぶつかって、きしり、鳴る。
(……錫杖?)
しゃらりと揺れたそれが月光を浴びて銀色に光り、近距離で見つめた化け猫――と思っていた影にぎろり、睨まれた。
途端、背筋に凍るような悪寒。
そして。
「ぐえっ」
落ちた。
「あたたた…」
強かに打ち付けた腰が酷く痛むが、しかし今はそれどころではない。
ざり、とスニーカーが砂利を踏む音を聞きつけ、閏乃は素早く身を起こした。
月明りの下、今は輪郭がはっきりとする、その影。
自分と違って着地は成功したらしい彼女の様子にほっと息を吐く。
こんな細い体が地面に叩きつけられたら骨折するに決まっている。
「こ、こんばんは……」
先の記憶もあり、つい恐る恐る声をかけてしまった。
ボストンバッグを抱え一歩近付けば、見覚えのあるシルエットは相変わらずのセーラー服である。
日本人形のような髪型は少し乱れ、しかしあの強烈な眼光はそのままにこちらを睨みつけていた。
「……こんなところでなにしてる」
あら不機嫌。
素っ気なく、というよりも苛立ちを込めた不穏な声色で責められた。
それはまあそうだろう、と思い至らないこともない。
「あの、違うんですよ?化け猫とつい勘違いしちゃって……、それで、、あの、ご」
「襲撃を怒ってるんじゃない」
「めんね……え?」
遮られた。
澄んだ声色で責められたところで怖くはないのだが、切れ長のその眼は迫力だけはある。
ざわざわと葉擦れの音が周囲を騒がし、閏乃は比叡山から遣わされた友好の使者――綺羅を前に緊張していた。
「どうして君が此処に居る」
「どうしてと言われても…」
あからさまな物言いに、閏乃はやはり怯んだ。
この鋭い眼に見られては、ごめんなさいとしか言い様がない。
もぞもぞと閏乃が喋れないでいると、綺羅は苛立たしげに息を吐いた。
「……本山の差し金だね」
怪の噂場所に〝鬼喰み〟がふたり。
お勤め以外である筈がない。
そしてなにより、託僧にとって「本山」からの命は絶対である。
『変化在り』と聞けば、その土地へと飛んでいき、見極め、喰わなければならないのだ。
「あ、綺羅さんも、化け猫退治です?」
おずおずと綺羅を覗き込むが、再び睨みつけられて後退った。
情けない限りである。
「君には関係ない」
ですよねー。
なにをどう弁解しても彼女には伝わらない気がしてくる。
彼女の物言いに、閏乃はむっとした。
「……でも、友好条約は本山のお達しですよ」
自分達ふたり、その友好条約の使者である筈だ。
意思は関係なくとも、本山がそうなれと言えばそうなるしかない。
黒と白しかない世界。
考えてみたら、ヤクザと一緒だ。
けれど比叡山の使者はなんの迷いもなく口を開く。
「知らない。上層が勝手に決めた協定など、守る義理はない」
そしてまさかの危険分子発言。
閏乃とて本山の規律下で従順とは言えぬにしろ、彼女ほどばか正直に口にする真似はしない。
反逆者に対する本山の始置きを思えば、それは利口とは決して言えない愚行であるからだ。
なにより、比叡山は裏高野より閉鎖的で戒律に厳しく、排他的な宗派と聞く。
(じゃじゃ馬どころじゃないかもしれない……)
たらり。関わりたくないと切に願う閏乃をよそに、綺羅は背を向けて歩き出してしまった。
その方角は、閏乃の目指していた道なりではあったが、颯爽とした背中に呼び掛けることも、その小さな身体の隣りを歩くことにも気が引けて、立ち往生するはめになる。
だが、ここで立ち止まっていたところで閏乃が面河小村に着く筈もない。
仕方ないので、彼女の後をついて歩くことにした。
とぼとぼと虚しく足音が響く。
天上には、月。
さやさやと鳴く木の葉の触れ合いがいやに静けさを助長して、鎖骨を伝い耳朶の下に鳥肌が立つ。
面河の冷たさか。とすると、崖下には河があるのだろう。
確かさやさやと水が動く音がする。
そこから上昇してくる脳味噌を直に刺激する冷たさに、キィンと奥歯が痛んだ。
さわさわと鳴る葉音の隙間から聞こえきる、秋虫や鳥の鳴き声。
夏はいつの間に終わりを迎えたのか。
面河は既に、冬に近い秋の様相であった。
「綺羅さーん」
相当な距離を歩いたように思うが、村の灯りは見えない。まだ、街頭のひとつすら。
気付けば目の前を一定感覚で歩いている比叡山の託僧に声を掛けていた。
しかし、やはりというか当然というか、彼女から返事はない。
(……いや、期待してなかったけど)
しかし気になることがじわじわと閏乃の腹から喉にせりあがってきている。
「きーら、さん」
ざりざりざり。
ローファーが砂利を蹴る音。
小さな背中は相変わらず真っ直ぐに道を進む。
まるで人々を地獄門へ導く小鬼だ。
「さっき、なーにしてたんですかー?」
閏乃とて、まさか林から女子高生が抜け出してくるとは思わなかった。
鬼ならまだわかる。
閏乃の産まれついての敏感な触手は、確かにバケモノだ言っていたのに。
(〝鬼喰み〟ってのは総じて人間離れしてるもんだけど…)
彼女の場合は、一般的に言われるそれとは根本的に違うような気がした。
華奢な首筋、細い髪、滑りゆく肩の線から無骨な膝、長くはない脹ら脛。
張りのある瑞々しい肉は人間と同じであるのに、そこから滲み出ているのはまるで。
(同じだなあ……)
彼女から漂うのは、バケモノのにおいだ。
(だからって)
追求などしないし、出来ない。
己もまた、純然たるヒトではないから。
「もしかして、猫を追ってたの?」
綺羅は相変わらずだんまりだったが、閏乃は気にもせず話し続けた。
異性は苦手だがバケモノなら怖くない。
彼女は人間だが、オンナノコというよりは、オニ寄りなので。
「さっき蹴ったとこ、痛くありません?」
ざりざり。
閏乃のスニーカーと綺羅のローファーが織りなす冷たい交響曲。
それに閏乃のお喋りが加わり悲劇を歌う。
「……あ、あかり」
村の灯りが見えるまで、綺羅から言葉が発せられることはなかった。
――村は暗かった。
昔ながらの木造建築が目立つが、中には新しいものも見受けられる小さな居住区。
紅葉や欅、松に囲まれたそれらの中に、小さな村ひとつを補うような光量はなかった。
狭い路地には街頭がない。
家々の灯りすら、灯っているのは精々、四、五件ほど。
ただでさえ暗い山中が、月に濡れた瓦のせいで更に冷たさを増しているように見えた。
(いや~な空気ぃ)
ぞっとしないなにかがそこから感じられたのは気のせいではないだろう。
なんとも異様なまでに漂っている血の臭いと獣臭さ、それから人々が湛えている脅えの気配。
「……酔いそ」
うげ、と付け足し思わず漏らしたが、前を歩く綺羅はやはり歩調を緩めぬまま路地に入っていってしまった。
無視……、と落ち込んでいる場合でもなかったので、彼女を追う。
歩く度に足許でさやさやと草木が鳴る。
なんと地面がコンクリートじゃない。
(……こりゃあバケモノに好かれるわけだ)
閏乃は綺羅から付かず離れずを継続したまま、スニーカーの裏で剥き出しの地面を蹴り上げた。
古来から生きる鬼や妖怪の食物は人間だが、コンクリートや自動車、ビルなどの人工物は奴等にとって苦手項目に入る。
ほんの数年で――何百年と生きるが普通の妖怪達にしてみれば数秒ほどの間に――目覚ましい進歩を遂げた人類の技術。
幸か不幸か、意図せずそれらは鬼達に一種のアレルギーのようなものを起こさせるのだ。
元来、妖怪というものは木々や空間、媒体といった、ありとあらゆるものから自然発生した特種な自然物なのである。
(――勿論、人の業や物に宿った妖怪もいるが)
それら大体が、障子や畳なら潜り抜けられるが硝子やタイルは潜り抜けられない、排気ガスでくしゃみが止まらなくなった、電気掲示板にうっかり触れて通電してしまい大怪我を負った――とにかく、バケモノと人工物は相性が悪い。
だからといってそれらが彼らの弱点になりうるわけではないから困りもので――話は逸れたが、つまりこの面河小村は化け猫にとって素晴らしい食卓だというわけだ。
盛られた器は自分好みのエコロジーもので、不純物は一切ない、苦手なものはあるにはあるが、恐怖に縮み上がった美味そうな人間――そしてなにより、この山奥。
夜ともなれば尚更、ヒトより怪の支配が強まる。
半端な位置にて生きるヒトが、夜の絶対的な存在感に勝てるわけもないわけで……。
なによりこの小さな村――村民の精神も閉鎖的なタイプが多いだろう。
(まさに餌が集まる虚(うろ)だなぁ…)
ゆっくりと距離を保ちながら綺羅の後を追う。
追ったところでなにをするわけでもないが、彼女について行って損はない気がする。
(ぼくちんの勘)
五分ほど歩き回ったところで、他の民家とは一線を画す場所に出た。
灯りの乏しい、随分と寂れた寺である。
(……ああ、なるほど)
苔の生えた低い瓦屋根を、閏乃は納得したように見上げた。
深い緑が月光に濡れ、白く発光している。
「今日は此処に泊まるの?」
歩調を早めて綺羅の横に並んではみたが、綺羅は閏乃の言葉を無視し、寺の本堂へと向かってしまった。
裏高野、比叡山という裏側で生きる組織には、昔から檀家という協力者が居る。
それらは寺、神社という形で存在し、或いは政治家、華族、土地主という形をとり、全国各地に散り散りになりながらその協力の手を惜しまないのだ。
此処は、そのひとつなのだろう。
「此処、綺羅さんとこの檀家?」
綺羅に倣い靴を脱ぎ、それらを持って長い回廊を渡る。
不法侵入と咎められそうではあるが、生憎慣れっこであったので、閏乃はある意味堂々とした様相で歩を進めた。
辺りが暗い分、月光が目障りに感じるほど明るく見える。
夜を白の波に濡らすそれらは、庭という庭の隅々までを照らし、しんと深く染め上げていた。