うるの黄昏




「……もしかして、何日か前から此処に来てたの?」

ひんやりとした板間は余りにも低温で、閏乃はぞくりと脚を震わせる。
少し前を歩く綺羅は相変わらず口を開かないが、躊躇のない歩調から、この寺を訪れるのは初めてではないと窺えたからだ。

「綺羅さん、和尚さんはお留守ですか?」

本堂の襖越し、数本の蝋燭の灯りは見えるが、人気がない。
敷地だけは広大な場所で、自分達が歩く軋む足音だけが響いていた。
相変わらず、綺羅はくしゃみすらしない。

(……参ったなあ)

この辺鄙な村で、顔見知りが居るというのは大変心強いことである筈なのに。

(これじゃあ気を遣うだけじゃないですか)

精神的に疲労が増す気がする。
なにせ閏乃は、自称〝繊細なハートの持ち主〟だからだ。

「あ、ひとだ」

本堂から裏の離れに向かうと、少しばかり人の気配が閏乃の鼻を霞め始めた。
格子型の襖に、人らしき影も映りこんでいる。
それも数人。
寺の住職達であろうか。

「……っ」

さわさわと風に乗って、その離れから血臭が運ばれるのを感じ、閏乃は思わず眉をしかめた。
肩にかけたエナメルバッグをかけなおし、片手のスニーカーを地面に放る。
それをちらりと一瞥したあと、綺羅はがらりと襖を開けた。
開いた分だけ太い線となって現れた中の灯りに、一瞬だけ目が眩む。
眩んだ視界が戻るより早く、血臭は更に深く鼻腔を突いてきた。
暗闇に突如現れた蝋燭の光はまるで、血を塗り込んで作られたように。

「……う、わ」

〝それ〟を確認した途端、思わず嫌悪が口に出る。

正方形の和室。
ただし畳が敷き詰めてあるだけでなにもない。
四方を漆の壁に囲まれただけそこは、まるで「檻」のようだった。

「アぁ、綺羅ど、ノ」

その中央――白い紙と柊で守られた結界の中。
袈裟を着こんだ嗄れた男達が四人。
皆が皆、まるで何日も食物を口にしていないかのような憔悴ぶりである。

南、北、東、西。
それぞれに立てられた蝋燭を繋ぐ白い紙と柊。
その中で、まるで監獄に入れられた罪人のように。

「猫は、ねコ、は……」

ひとりが血を垂れ流しながら言った。
よく見れば、四人の足許にはまるで池のような血溜まりが広がっている。
その血流は四人の袴内から足を伝い流れ出て、い草とい草の隙間に音もなく染み込んでいく。

「猫ガ、ネコが語ッテ、います。ホノオが、熱い、アツイ、と、消えぬ炎ガ、現れた、ト」

まるで怪に憑かれたように男達は語る。

――消えぬ、ホノオ。


「……俺のことかなあ」

閏乃は男達の言葉に、ぼんやりと呟いた。
それを耳にした綺羅が、横目に彼を流し見る。
火の申し子である閏乃の噂は、比叡山にも流れていたのだろうか。

「……猫はもうじき戻ります。貴方達の禊は、今夜で最後です」

そんな閏乃を他所に、綺羅は男達にそう告げた。

禊の終わり――。

それを聞き付けた男達が、ざわざわと歓喜の声を上げる。
禊とは名ばかりの苦行であろう。
血反吐を吐き、苦しみ、それでも続けなくてはならないとは、聖職者とは不自由な職業である。
涙を流し喜ぶ男達を残し、綺羅はその離れから踵を返してしまった。
途端に、男達は気力を失ったようにその場に崩れ落ちる。

ぎょ、とした閏乃は慌てて戸を閉め、綺羅のあとを追った。
暗闇の領域が濃い庭園の中で、綺羅の纏う白いセーラー服だけが発光しているように見える。
それを追い、横に並んでから口を開く。

「綺羅さん、あの人達、どちらさま?」

その問いかけに、綺羅は閏乃を一瞥してから口を開く。

「この寺の住職と修行僧」
「なんであんな風になっちゃってるの」

とたとたと足音を潜めながら、声も同時に潜める閏乃をやはり一瞥してから、綺羅はふいに立ち止まった。
何事か、と閏乃が問う前に、綺羅は真横の襖をすぱんと開け放つ。
そのままその部屋に入ったかと思えば、慣れた様子で灯かりを点ける――蝋燭ではなく電球だった。
薄いオレンジに照らされた室内はどうやら客間で、中央には文机と今時珍しい黒電話、端には畳まれた布団――どうやら綺羅が使用している部屋らしい。

「猫又を解き放った代償として、身体を張って結界になってもらった。それだけ」

(――それだけ、って……)

説明しながら部屋の角に荷物を放る綺羅を眺めつつ、閏乃は理解に苦しむ。
怪の類いが寺社に奉られ、封印されているというのはよく聞く話であるが――。

「解き放ったって……」

妖が封印されていたならば、それこそ並大抵の結界ではあるまい。
それが解き放たれたということは、期限切れか、或いは事故か、或いは故意――。

「……ここの猫又が帝を脅かしたとして封印されたのは室町時代。丁度六百年前。無力な猫だった時分に、人に殺されかけたせいか一段と気性が荒かった。周辺の村人を片っ端から喰い殺し、悪況を聞いた流浪の僧に封印された」

――此処に。

「それでも百年毎に新しく祝詞を上げ、結界を強化しなくてはならないほど凶質だった。それなのに」

綺羅の手がゆっくりと札を取った。
あの結界の要であろうその小さな札の中で、この寺の和尚達は苦しんでいるのだ。
つまり。

「……祝詞をサボっちゃったんですね」

なにか理由があったかもしれないが、彼らの人生の中で最も重要視しなくてはならなかった祝詞を上げないとは、最悪の愚行だ。
書類を忘れて上司に怒られるようなサラリーマンなんかじゃない。
ひとつ怠れば、無関係の人々の命を脅かす。
彼らの使命といっても過言ではない行を、怠ったのだ。
女子どもの臓物が散り、屍からはみ出た糞尿が道端に転がり、ひちゃひちゃと血を啜る、分厚い舌の音。
そういった職に就いている者としての自覚がなかったのかはたまた――。

「だから、身体を張って結界になってもらっただけ」

だけ、と小さく漏らした綺羅の背中を眺めながら、閏乃は片眉をひくりと上げた。

(多くの命の為に、小さなの犠牲を、ですか)

あまり好ましい教えではなかったが、比叡山と裏高野に共通するのがそのひとつの信念だった。
最小の犠牲ならばいとわない。
それなくして、三千世界の平和など訪れはしないのだ。
その教えが双方の集団にどれほど染み渡っているかは、綺羅も閏乃も、自身の身を通じて知っていた。
抗ったとしても救いはない。
犠牲という名の人柱としての互いを、まだふたりは知るよしもなかったのだが――。



「……で、和尚さんたちの結界範囲はこの面河小村全域なんですかね」

しゃり、と小気味よい音を立てて錫杖を壁に立て掛けると、閏乃縁側にしゃがみこんだ。
庭に放り投げたスニーカーを引き寄せながら、そう綺羅に告げる。
その言葉を受け、縁側に腰掛け、絡んだ紐を解いている閏乃の背中を見、綺羅は冷ややかな視線を流した。

「猫は私のものだよ」

暗に邪魔をするな、という少女を前に。

「……いやいや」

とん、と履き潰したスニーカーで庭に立てば、くるりと空中を縦に廻る。
軽く一回転したところで着地した閏乃は素直に愉しげな笑みを浮かべていた。

「折角、遠路遥々来たんだから、せめて一房の毛くらいは持って帰りたいなあと、思いまして」

なにせ猫又の毛を使った占(うら)はよく当たると評判なのだ。
知人の占い師に売れば、終わってしまった夏休みの変わりにはならないとはいえ、秋冬の軍資金ができる。
お勤めで長野に行けばスキーができるし、北海道なら海老蟹尽くし。
沖縄に行けば寒さに凍えることもなくのんびりと羽を伸ばせる。
そうでなくては、やる気も起きないというもの。

「さて、確か今日、決着をつけるんでしたよね?」

白々しくそう口にした閏乃を冷ややかに一瞥し、綺羅はゆっくりと部屋の戸を閉めた。
天上、とはまではいかないが、見上げる角度にある月が、囁かに闇を照らす。



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