うるの黄昏




闇は母の胎。
いつもそこから産み出でて、鳴き声を上げて、命を喰うのです。
だからどうか子守唄の代わりのに手鞠を歌ってください。
わたくしはその音を聞けば、真実に戻れるのです。




――ギィィィ。



「うわぁ」

嫌な音を立てて、木造校舎の床は軋んだ。
寒寒しいそのリアルな効果音は先日見た日本のホラー映画を彷彿とさせ、閏乃はうんざりする。
ホラーと言っても化物が現れるわけではなく、狂人と化した人間が次々に殺戮を……。

「ぶつぶつうるさい」

妄想していたらぴしゃりと叩き落とされた。
ギィギィと床を鳴らしながら歩く少女は、月明かりしか頼りにならない校舎内でも心寒くはならないらしい。

「綺羅さんはこういうの怖くないんですかー?」
「君、怪を喰らう者でしょう」

なにを言ってるのか、と心底から訝しげな顔をされた。
いや確かに、化物や幽霊の類も頭のイカれた人間も怖くはないのだが。

「なんかこういう雰囲気って、怖がらないと損って気がしない?」
「しない」

つまり雰囲気にびびっているのだ。
口にしたら予想以上に馬鹿馬鹿しいことに気付いたので閏乃は怖がるのをやめることにした。

「それにしてもでかい学校だなあ」

今は使われていない木造校舎は範囲が広く、なにより長い年月が過ぎた味があった。
しかし安全性を考え二月後に壊される予定だったのだが。

「取り壊しの段取り最中に出たわけですね、化け猫が」
「そして地元の作業員を喰った。県外からきていた作業員には目もくれていない」

綺羅が決定打を打つ。
つまりそれは、未だにこの土地の呪縛に縛られているということ。

「この土地が一番霊力が強い場所だった。だからこそ結界が解けた瞬間、一番にここに現れて、喰らった」

そしてだからこそ、彼女は猫又をこの土地に誘い込み、結界を張ったのだろう。

「奴が四人目を喰らった時、この村に着いた。すぐに結界を張って、人間には手が出せないように……だから、ここ数日は喰ってない」
「つーまーり、餓えてるってことですよね。うへぇ、猫又が餓えると気持ち悪いって言うけど、想像したくねーな」

猫股が、というより、「怪」は餓えると総じて気持ち悪い。
とにかく喰らうのが奴等の本能だから、涎はだらだら垂らすし、目は血走ってるし、栄養が減少した身体はがりがりに痩せてぼこぼこ穴が空いてたりするし。
思い出して、今から餓えた猫又を喰らうことが嫌になった。

「たった今から一時間、この木造学校だけに範囲を絞って強力な結界を張った」

綺羅が持つ錫杖がしゃらりと鳴った。

(一時間、か)

ギリギリ。
下手に逃げられたら困る。
猫又は長年生きに生きた猫が変化したものだから、たまに妙に賢いのがいるのだ。
タイムリミット六十分。

(さあて、頑張りましょうかね、閏乃くん)


「結界はもう完全に安定してる」

ゆらり、月光が滲んだ。

「――だから、あとは餌で釣るだけ」

キシィと特に大きな音がしたと思ったら、ふ、と月明かりが途切れた。
ゆらゆらと窓から見える空は、半球型に張られた結界で少し歪みが見える。
それを塞ぐように、大きな影が走った。

「ねぇ、綺羅さん」

耳を裂くような風切り音。
グルル、と唸る牙が唾液に滴る振動。
ばかでかい図体は、しなりと筋肉が付いた緩やかな曲線で、動きは機敏。

(腹を空かせてる割りに、よく動きやがる――それだけ切羽詰まってるってわけか)


「ところで餌って、なに?」

薄闇の向こうから一メートルはあるでかい爪が光る。
一体どこで研いでいるのか、触れればそのまま切れてしまいそうなほど、鋭利。

「……餌は君だよ、閏乃」

ギィィィッ―――。

床に付く爪に力が入ったと思った途端、軋む。
ど、と足元が振動したと思えば床が抜け、二階に居た俺達はまっ逆さまに一階へと落ちた。

てゆか餌、って……。


「俺!?」

ひゅん、と耳のすぐ傍を掠めたかと思えば、猛スピードで向かってきた爪が見えた。
まだ空中に浮いている状態で――このままではあの爪を喰らう。

「……っでもね、そんなに、」

慌てて体勢を立て直し、向かってくる爪に拳を定めた。
意識せずとも、じわり、指先から脳味噌まで熱が篭り、じわりと発光する――今体温を図れば、千度は下らない。

閏乃の身体は、そういう身体だった。

「世の中、甘くないんです、よ!」

ゴ、と鈍い音がして向かってきた爪にぶち当たった。
肌を焼くほどの熱気が衝撃となってこちらに流れてくる。
鋭い爪と交差した――普通なら原型も残らないくらいぐちゃぐちゃに裂けるだろう拳には痛みすら感じない。
代わりに鳴いたのは、猫のほうだった。
身体の一部をマグマ並に熱くして、相手にぶつければ当然、――溶ける。
耳をつんざく下品な悲鳴が耳に突いて、どろり、びちゃびちゃと溶けて液体状になった爪が一階の床に滴る音。

「綺羅さ、」

着地してすぐ、一緒に落ちた筈の綺羅を探すが見つからない。

「おっと」

ついでに言えば猫すら消えてしまった。
溶けた爪だけが、足元でどろどろと蠢いている。

「逃げやがったな……」

綺羅は恐らく、猫の後を追ったのだろう――綺羅が持つあの独特の中性の気配と猫又の気配は同じ方向へ繋がっている。

「今度はドタマから喰ってやる」

片手の爪は喰った――後はもう一組の爪と鋭い牙。

「待ってろよ、俺のキティちゃんっ!」







―――キィ、ィイイ…。

理科室、と書かれた扉を開ける。
ぽつぽつと続く白い半固形を辿れば、そこに繋がっていた。
恐らく、閏乃が溶かした「猫」の爪だろう――生臭く温まった臭いが漂い、気分が悪い。
カルシウムの腐った臭い。
綺羅は鼻で一度深く呼吸を吐き出し、辺りを見渡した。
理科室とはいえ、背の高い薬品棚が多すぎる。
月光があるとはいえ、視界が狭い――こんなところをあの大きな図体が通ったわりに、きれい過ぎる。
けれど確かに、聞こえてくる荒い呼吸、と、涎が垂れる音。

「……ダメだよ」

ふるふると震える体が、実験台の下に垣間見えた。
巨大な体躯だった筈のそれは、小さな小さな、仔猫の姿で。

「そんな愛らしい姿で、憐れに怯えたって」

大きな眼が透明な膜を張ってこちらを見ていた。
それは棄てられた仔猫のようで、そうまるで、情けを乞うように。
けれどその片脚に、小さな爪はなかった。

「君の身体から漂う血肉の臭いは、消せやしないもの」

――キン。

「っぎぃ、ぃ」

投げられた小さな小刀が傷付いた片脚と床を刺し留め、猫が唸る。
容赦なく仔猫の脚に刃を立てた綺羅は、変化しない内に、と歩調を速め、痛みに震える猫の首を掴む。
こちらの視線と同じ高さまで小さな身体を持っていけば、よく切れる小刀が「猫」の脚を裂き分けて、また「猫」が鳴いた。
がたん、と窓に叩きつければ、使い物にならなくなった脚が跳ねてどろりとした血液が頬に飛ぶ。
それを気にした様子もなく、腕に鋭い爪を食い込ませながら。

「……君のお陰で、随分と血が流れた」

今回の事件だけじゃない。
記憶を辿ることすら叶わないはるか彼方からずっと、人の皮膚を裂き膓を喰らい血を啜り、食料としてきた。
もとはただの、そこらで日向ぼっこをしている平凡な猫と変わらなかったというのに。

「お前が悪いわけじゃない。ただ時代が、怪よりヒトが住みやすく変わってしまっただけ」

だから、大人しく、殺されておくれ。
言外にそう伝えて錫杖を構えた綺羅の凄味を目の当たりにして、ひくり、と猫の眼が奮えた。
それを境に、暗闇で金色をしていた瞳がぶるぶると黒朱に変わっていく――「猫又」と云う、怪の証。


『――おのれぇえ、』

ぼ、と辺りを照らすのは鬼火。
愛らしい猫が操るにしては、凶暴かつ危険だ。
薄く透明な火色は対した照明にもならないが、「猫」が見る見るうちに変化していくのが解る。
柔らかそうな毛はざわざわと音を立てて剛毛になり、水分を帯びてきらきらと輝いていた瞳は乾きに乾き、皹が頬まで走っている。
小さく収められていた爪は隠すことを知らないようにぱきぱきと床に食い込んだ。

『きさまのようなこむすめに、わしのような往生がやられてたまるかぁあ…』

聞けば気分が悪くなるようなしゃがれた声色と共に鼻を突く悪臭が漂う。
腹の底に溜まる人の血肉が発酵したにおい。
むくむくと大きくなる荒だった身体が、綺羅に今にも飛びかからんとした瞬間―――。


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