うるの黄昏
■無名の間



――紀伊半島・高野山。

地図にはない寺、裏路第六法殿。
閏乃はその若々しい肌に汗を湛え、凡そ二時間をかけて千八十段ある石段を登りきった。
ぜえぜえと荒く息を吐きながら、深い木々の影に囲まれ今にも見落としそうな小さな門を潜る。
夏の始め、梅雨は未だ開けてはいないものの、日に日に増す暑さと陽の強さは異常だ。
そんな最中、こんな荒行を課せられる高校生は全国広しと言え自分しかおるまい、と朦朧とした頭で考える。
鼻下の窪みに溜まる汗が憎らしい。
テスト期間中だというのに、こんな山奥に自分を呼び出した男が憎い。閏乃は門を潜ってすぐにある濯ぎの池に顔を突っ込んだ。
こんこんと湧き出る地下水は限りなく透明に近く、透ける水底に漂う水藻が涼しさを呼ぶ。
きんと冷えた頭をシャツで拭ったところで、しゃん、と錫丈が鳴る音を聞いた。


「遅かったね、閏乃」

低く落ち着いた声が耳を慰める。
自然、閏乃の眉間にはうんざりと皺が寄る。
伸びた前髪に水を滴せたまま振り向けばやはり、涼やかな表情を浮かべた老僧が立っていた。
葉の青い紅葉に空を隠されるように建立する六法殿の赤い柱に寄り添っている。

「うるさいわい。ヘリでも出してくれりゃあいいのに、なんでよりによって六寺なんだよ」

俺を熱中症で殺す気か。
悪態を吐く閏乃に反して、金地の袈裟を纏う老僧は笑みを讃えたまま口を動かす。

「おや、知らなかったね。火の申し子であるお前が暑さなんぞに弱いとは」

喉と顔全体を鳴らして老僧は嗤った。
そのまま踵を寺の中に返したので、閏乃も続く。
寺の柱を潜った途端、隔離されていたかのように外の熱気が消えた。

「知らなかったのかよ、ジーサン。いまやこの日本、いや、世界中で温暖化の影響は出てんだぜ」

数歩歩いて、自分が土足であったことに気付いた閏乃はボロボロのスニーカーを脱ぎながら軽口を叩く。
ひやりとした回廊を奥へ進みながら、老僧はからからと嗤った。

「ほほっ、活火山からも生きて帰るぬしが泣き言をいうか」
「……好きで行ったんじゃねえわ。あん時はほんと俺、死ぬかと」
「しかし今、ぴんぴんしておろう」

閏乃の悪態を悉く叩き落とし、老僧――廻爾(えじ)和尚はついと柱の角を曲がった。
門を潜る百八つ目のその柱はそれだけが浅黒く変色している。
昔の話だが、閏乃が燃やしたからだ。

その柱を過ぎ、懐かしいと思う間もなく閏乃は開け放たれていた襖を開けた。
黒柱の角を曲がってすぐ現れるその間に名はない。
一体何畳あるのかと疑う猶予すらないほど広い畳の間は、とにかく先へ先へと続いて途切れている。
最終地点には若吹の几帳が立てられ、微かな蝋燭の光でそこに人が居ることを閏乃に知らせた。
外は炎天下の昼間だというのに、陽の光は一筋も届かない。
厚い厚い木板で封鎖されたこの間はいつも、ひやり、と底冷えするような冷気が漂っていた。
いつ来ても、その異様なギャップにおかしくなりそうだ、と閏乃は思う。
ただやる気なく立ち尽くす閏乃を咎めるでもなく、先を歩いていた廻爾和尚は座敷の中央に座り、几帳に向かって頭を垂れた。


「連れて参りました。閏乃でございます」

ゆらりと蝋燭が揺れた。
かさかさと衣擦れがして、几帳の奥の人数が増えたのを知らせる。
それを確認してから、閏乃は廻爾和尚の後ろに慣れぬ正座で腰を降ろした。
閏乃はなにを語るまでもなく、ただ黙って待つ。
上層のお偉い方を相手に喋るのは気を遣うからだ。
言葉遣いやら禁句やら、ご法度やら、考えただけで頭が痛くなる。

「――閏乃」

そうして閏乃が黙りこくっていると、女の声が届いた。
まだ若い、だが、凛とした女の声である。

「お前の話は聞いているよ。無鉄砲で作法知らずだが、火の申し子らしいね」

声音は若いが、口調は妙に落ち着き老成している。
この裏高野の人間には珍しくはないので、閏乃は黙って聞き役に徹することにした。
蝋燭が風もないのにゆらゆらと揺れて、複数の影も揺らす。

「お前は若い頃から裏高野に遣えてきたらしいが、私は初めてお前を見た。お前も私を見たのはこれが初めてであろ?……これがどういうことか判るかね」

女が問う。
口振りからしてかなり上の人間らしい。
しかし閏乃にそんなことは関係ない。閏乃はただの高校生にすぎないからだ。
だから言う。正直に。

「わっかりません」

見当もつかない、とちゃらけてお手上げのポーズを取って見せた。
途端、その無作法ぶりに女の周りを囲んでいた影がざわめく。

「なんて無礼な」
「廻爾はなにを教えておる」
「噂通りじゃ」

どうやら女を固めているのは頭の固いオヤジ共だけらしい。
閏乃はそこでほっと息を吐く。
自分が一番会いたくなかった人物は、今日はいない。
最高である。
彼がいないなら、あの無駄に長い石段を登ってきたこともさして悪くなかったように思えるのだ。
閏乃は廻爾の背中を見ながら、にやにやと口許を緩めた。

「お前達、静かになさい」

無礼だなんだとざわめく周囲をたしなめたのは女の声だった。
意外なことに、その声色にはからかうような色が混じっている。

「閏乃、お前はおもしろいね」

なにが面白かったのか。
しかし閏乃はわかっているかのようににこりと笑い、「はあ、よく言われます」とのたまわり、再び他の者達を騒がせた。
廻爾はたしなめもせず笑っている。

「ふむ、やはりお前に頼もう。火の申し子という業とその性、お前ほどの適任もおるまいな」

――適任?
女の口からその言葉が出た途端、閏乃は眉間に深い深い皺を刻んだ。
適任、とは余りいい言葉ではない。
厄介な仕事を押し付けられる度、閏乃はその言葉を聞いてきたからだ。

「お前の活躍と実力、経験と性を評価して頼みたいことがある。断るなら今のうちぞ」

女が笑みを含んだ状態でそう口にした。
断ることが可能なら内容を聞く前に即断りたいものだが、生憎そうもいくまい。
裏高野の掟は絶対であり、なにより残念なのが、堅実たる縦社会であることだ。
下っ端の使いっぱしりには選択の自由があると見せかけて、ない。
全く、不条理な世の中である。
そんなこと、まだ高校生の身空で知りたくなかった。


「――我々、裏高野と比叡山の間に血生臭い歴史が過ぎたのを知っておろう。主には想像もつかぬ、深く醜い歴史よ」

くつりくつりと嗤うその声色が酷くこちらの気を乱す。
なにが面白いというのか、閏乃は眉を寄せたまま唇を尖らせた。

「何百年と続く我々の間に立つ確固たる確執の中、我々は互いの領域を侵さず、西を東をと守り続けてきた」

それは周知の事実である。

高野山と比叡山。
表では繋がりのない関係ではあるが、その実、歴史の裏では深く永く敵対関係にあった仲である。
元は各々ひとりの祖から始まった巨大な組織は、互いに鬼を滅する性に産まれた故に対立してきたのだ。
今でこそ均等は取れているが、その敵対意識は根深いところに在る。
なにより闇でしか生きられぬ存在価値しか持たない己ばかりだ。
比叡山なんぞに、裏高野なんぞにその価値を奪われてはかなわない。
その為に血が流れた。
ヒトの血も鬼の血も神の血も――とは言っても、閏乃にそんな実感はないため、理解はできないのだが、まぁ仕方がない。

とにかく、比叡山と裏高野の託僧は、遥か彼方からその身を費やし互いに牙を剥き合ってきたということは事実なのだ。


「しかし妙なことに、その比叡山の者達が我ら裏高野と協定を結びたいと申し出てきてね」

――協定。

「適任」に続き再び嫌な言葉が出てきた。
団体行動は苦手ではないが馴れ合いは苦手だ。
調子に乗ってすぐ他人に気嫌いされるからである。

「はじめは我らも戸惑ったが、協議した挙句、あちらの言葉に譲歩することにしたのよ」

にやり。
几帳に隠れた女の影が嗤った気がした。
ぶるぶると揺れる蝋燭の灯りのせいか、女の影がバケモノのように膨張している。

「比叡山からは一人の託僧が寄越されるようだよ。友好の使者、と言ったところかね」

そしてそんな演出が閏乃は気に喰わない。
しかし女は閏乃の機微を悟っていながら話を続けた。

「閏乃よ、此処まで話せばお前とてわかるだろう」

まるで委ねるようなあやすような言い方で、女は几帳の奥で立ち上がった。

(――お前を呼んだ意味がわかるね?)





い草の濃い匂いの充満する広い間で、閏乃は正座を崩し、無駄に長い脚を投げ出したまま固まっていた。
というより動くのが億劫というところか。

名無しの間の最奥――几帳の向こう側にはもう人影は見えない。
謁見が終わったにも関わらず動こうとしない彼を、廻爾和尚は姿勢を崩さぬまま眺めていた。
閏乃の正面に座しているのは変わらず、しかし今は空の几帳に背を向け閏乃に向き合う形で。

「飯でも食べていくかね?」

なにも語らぬままこちらを見ていたかと思えば唐突にそう語る。
閏乃は口角を釣り上げて廻爾和尚を見返した。

「育ち盛りの僕ちんに精進料理なんか似合わねえよ」

第六法殿の廻爾和尚。
精進料理の腕は料理人以上だとか。
しかしかといって閏乃にその味がわかるわけもない。
育ち盛りの十七歳。
飯は一に肉、二に魚、三四がなくて五にご飯である。
山菜やらの薄い味付けものなど御免だ。
出来るならば勘弁願いたい。

「ほっ、それ以上育ってどうする。ばかめが」

からからと笑い廻爾和尚が立ち上がった。

「誰がばかじゃ、誰がっ」

その背中に、閏乃の野次が飛ぶ。
しかし廻爾和尚に続き、素直に名無しの間を後にした。
黒い柱を曲がったところで廻爾和尚が再びくつりと嗤う。

「……なんだよ」
訝しげに閏乃が尋ねれば、廻爾和尚は声高らかにからからと笑みを深くした。

「無名の間を涼みの場にするなど、閏乃には千年と八日早い」

わざわざ深く考え込む振りをしてあの涼やかな間に留まっていたことなどお見通しらしい。

「霊験あらかたな場っつぅもんはクーラー要らずで羨ましいね。地球に優しい上に人間にまで優しいなんて僕ちん感激」

柱を過ぎる度に少しずつ外の暑さを思い出していく。
今は正午。太陽が高い。

「数週間後か数日後か明日か、お前の通う高校に現れるだろうね」

最後の柱――外へ出る門で廻爾和尚は立ち止まり閏乃にそう伝えた。

「……出来ればかわゆい女の子がいい」
「阿呆め。女の扱いなど知らぬ小童めが」
「うるせえこの生臭坊主!」
「図星かい。嘆かわしい」
「うるへー!」

外に出るとやはり太陽は高い高い位置で弧を描いていた。
ジリジリ、廻爾和尚と別れた後、また千八十段の石段に挑戦しなくてはならないのかと考えて、このまま第六法殿の引きこもりにでもなってしまおうか――そう本気で考えた閏乃、十七歳・夏。

よもや天に召します仏様が、こいつの人生ここいらでいっちょ大きく変えてやるかぁ、などと考えているなど、汗だくの彼はまだ知らない。

太陽は変わらず高い空で散々と爆発していた。


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