うるの黄昏



(……くっそ!火の申し子の閏乃になにしやがんだ)

――カーンコーン……。
一気に吹き出た冷や汗を隠し、閏乃は首を巡らせる。
――キーンコーン……。


「え」

しかしそこにいたのは、例のあの女生徒だった。
たった今紹介に預かって会釈しあった、転入生の女の子。

彼女はこちらを見てはいない。
教師に続き、教室に入ろうと足を運んでいる。
けれどこの異様な気配は明らかにその子から発せられたものだ。
見れば、ガラスの向こう側。
教室の端に立つ司馬も、青ざめた表情で彼女を凝視している。

(この気配を感じてる。ってことは、やっぱ司馬が比叡山の……)

浅い思考でそこまで考えたが、しかし女子の意識がこちらに向けられたことでそれは中断された。
なにも含まないまっさらな視線がちらり、こちらを撫でる。
心臓をぶち抜かれるかと思うほど、一瞬の重圧を感じ……。

「を?」

――すぐに、金縛りのように体中を渦巻いていた気配が消えた。

女子は既に教室内に入り姿が見えない。
だからだろうか。
今の今までがまるで夢であったかのように何事もない廊下へと戻っている。
司馬を見れば、その不可解な現象を前に眉間を寄せていた。

(……厄介だなぁ)

もしかしたら鬼が一匹、それもとびきり上等の鬼が紛れ込んでいるのかもしれない。

(しかもヒトに化ける鬼だ?)

本能以外に知能も発達しているとなると厄介極まりない。
ヒトに化けられるならば姿を変えることだって可能かもしれない。
となれば、知人に化けられ先程のように気配を消されてしまっては、もう判断のしようがないわけだ。

(なんだってそんなヤツがこんな都内の学校なんかに…)

舌打ちした。
夏休みが近いとは言え、学校には多くの「餌」が絶えることなく在る。
人喰みの鬼にしてみれば、最高の穴場というわけだ。

(畜生、鬼め。このうーちゃんが在籍する学校を選んだこと、後悔させてやる)

辻 閏乃は〝鬼喰み〟である。
いや、実際に鬼の肉をつつくわけではないが、託僧のひとつである退魔の称号としてそれを身に受けているのだ。
それに今は比叡山の司馬もいる。

(ならば鬼一匹、おそるるにたらんわ!あははははっ!)


「おぅ閏乃、お前遅刻か」

しかしそんな閏乃の意気込みも、担当教師によって中断させられたのだった。




『鬼ぃ?』

携帯電話の通話口。
すっとんきょうな声が男子トイレ内の個室に響き渡った。

実習棟四階の汚い男子トイレ。
二限の体育を休み、閏乃はそこに籠っていた。

『鬼がどうした。鬼などそこらにゴロゴロしているに』

通話の先でだからどうしたと冷たいあしらいを与えるのは第六法殿の廻爾和尚。
早計はいかん、と、怠慢屋の閏乃らしく、先ずはお上に連絡を取った次第である。

「ヒトに化けて出たんだよ」
『その程度の鬼など今まで何千何万と相手にしてきた閏乃がなにを言う』

「じーさん、学校なんですよ?今までドンパチやってきた山や僻地じゃない。被害が出たらどうすんだ」

始めから取り合ってくれるとは思ってもみなかったがまさか此処までとは。
閏乃は鼻の穴を開いて受話器の向こうにいる廻爾和尚に噛みついた。
しかし廻爾和尚は呼吸を荒げることもなく、くつくつと嗤う。

『簡単じゃないかね?』




バァンン…!

「なぁにがっ『被害に出る前に喰えばよい』だ!」

昼休み――。
閏乃は屋上のドアを蹴り破り、早々にそう叫んだ。
数時間前の廻爾和尚の言葉が耳に木霊している。
こちらの苦労も考えず、全く、簡単に言ってくれる。

――いや。

「……わかってはいるんだけどねぇ」

その昔、廻爾も有名な〝鬼喰み〟だったのだ。
閏乃の想う苦労を知らぬわけもない。知っていて、閏乃を信頼し、任せてくれている。
解ってはいるのだが、素直になれないのが年頃の閏乃ならではだ。

(まぁとにかく)

司馬の裏を取り、比叡山の使者であることを暴く他に、女の形をした「鬼」についても当たらなくてはならない。
考えれば考えるだけ頭が痛む。

司馬が早々に正体を暴露してくれれば良いのだが――そもそも隠す必要性を感じない――何故か司馬は閏乃の存在を気にする風もないのである。

休み時間になれば、物珍しげな女子や男子に囲まれ、にこやかに人の良い笑みを浮かべている。
閏乃に気付けば当然、柔らかな笑みを浮かべて手を振ってくる。

――だが、それだけなのである。
朝の件であの女が「鬼」であることは判明した筈なのに、こちらにコンタクトを取ってくる様子もない。

(なにか裏がある?)

――まさか比叡山全体で裏高野を謀るつもりなのか。


「いやいやまさか、」

そんな筈はない。こんな一介の坊主の妄想で戦争を起こすところだった。
もしそうなれば抗争が起き、互いに被害はひとたまりもないだろう。

(穏健派の比叡山側がまさかそんな危ない端を渡るわけねぇし…)

では何故だ?

何故、司馬は「鬼」を放置している?



「――きゃぁああああっ」

その時である。
閏乃が頭を抱えている真下から悲鳴が響き渡った。
それを聞くや否や、弾かれた矢のように開け放たれたままのドアに向かい、そのまま階段を全段飛ばしで階下まで下りる。

バタバタと足音高く向かった先は三階の渡り廊下。
夏の熱気が隠るその場所で、セーラー服の少女がひとり、うつ伏せで倒れている。
そして、彼女の傍には司馬が膝をついている。

「どうした」

悲鳴が鳴り渡ったわりにギャラリーが少ない。
多少の人垣を縫い、閏乃は倒れている少女と司馬に大股で歩み寄った。
普通の人間が七歩かかるところを四歩で済ませられたのは、こんな時にしか役に立たない、無駄に長いコンパスのお陰である。

「彼女、なんで倒れてるの?」
「解らない。たまたま通りかかったら、彼女が」

司馬は少女を抱き起こしながら閏乃に説明を開始した。
仰向けにされた少女は一瞬意味もなく躊躇ってしまうほどきれいな顔をしている。

「特に大きな外傷もないし、大丈夫だよ」

司馬は説明しながらも少女の顔や体を覗き込み、簡単な触診を済ましていった。
だいぶ手慣れている。
一介の高校生が冷静にやりきれる範疇を越えていた。

「顔が赤い、体温が通常より上がってる。熱射病かもしれない」

そうして出した診断がそれだ。
影の吹きだまり、渡り廊下、風はない。
そしてこの暑さである。
まぁ、有り得なくもない。

「……小林くん」

到着した保健医に少女を預けた後、司馬は騒ぎに紛らわせるように声を潜めた。

「僕が駆けつけた時、あの子の傍には彼女がいたよ」

まるで秘め事、或いは真相を揶揄するような物言いである。
思わず問い詰めようと腕を伸ばしたが、まるで猫のようにするりとかわされた。

「彼女……」

しかし追う気にもならない。
閏乃はギャラリーがひとりも居なくなった渡り廊下でひとり、ぽつんと考えることにした。

『彼女が傍に』

司馬が謂う「彼女」とは明らかに「鬼」が化けたあの少女のことだろう。

(自分が駆けつけた時、傍に……)

それは彼女が「鬼」としてあのきれいな少女を喰らったということか。

しかし喰らわれたわりに少女に傷はなかった。
ならば喰う前に司馬が現れた、と考えるのが妥当だろう。
そこに思い当たり、閏乃は唇を尖らせて唸った。

(俺は悲鳴が聞こえてから気付いたってのに、司馬はその前から〝鬼〟の気配に気付いてたっていうんか)

それはつまり閏乃は司馬より劣るということだ。
幾ら気が散漫してたとはいえ、「鬼喰み」が「鬼」の気配に気付かないなど笑止。
それとも司馬は「鬼」の居場所を予測する特別な術でも持っているのか。
――どちらにせよ、閏乃はミスをやらかしたのだ。

(ちっくしょおおぅ)

ガツン。
渡り廊下の壁を勢い余って蹴り飛ばす。

「いたい……」

痛かったのは閏乃の指先だけである。

(こりゃあ、司馬ひとりでどうにかなっちゃうんでないの)

なんとも詰まらぬ脱力に圧され、閏乃は脚を抱えたままうずくまり、頭上を見上げた。
コンクリートの冷たげな天井と、その隙間を占める未だ明けぬ梅雨の空気。
じとりとした湿気を含む雲が遠くから触手を伸ばしてきていた。
あと二限で学校が終わる。
なにも一日で決着を着ける必要はないのだが、なにか面白くない。

(いや、二人目の犠牲を出さない為にも……)

とは考えてみるが、比叡山の使者と人に化けた〝鬼〟。
両方同時に進行するなど器用な真似は出来ない。
閏乃は基本、不器用を売りにしているからだ。

(仕方ねぇや。こうなったら一方に絞って……)

カツン。
考え込んでいる最中に耳に届いた物音に、閏乃は顔を上げて首を巡らす。
渡り廊下の先――閏乃が座り込む場所とは反対側の校舎。
人気のないそこに、彼女は立っていた。

「閏乃」

凛とした声だった。
長くはない黒髪を強くはない風に靡かせて。

〝鬼〟が、立っていた。



「……なんだよ」

冷ややかに向けられた視線に、思わず警戒心を露に声を低くしてしまった。
らしくない、と思いながらも、目尻の筋肉は弛みそうにない。

「君」

しかし「鬼」は怯みもせず言葉を続ける。
空気に乗せて届ける術でも知っているのか、囁くように声を吐いた。
靡く髪とスカートが異様な空気を醸し出している。

――ど、と生温い風が吹き、閏乃の赤茶けた髪を撫でた。
血生臭い臭いの混じったそれに、鼻がひくりと反応する。

「邪魔だよ」

低く怒涛を繰り出すような声だった。
到底、この線の細い女の子から出たとは思えない。
しかしその言葉にカチン、ときたのは閏乃である。
座っていたまま一気に立ち上がると、大股で駆けた。
ヒュン、と耳鳴りがして、右手には獲物の感触。

〝鬼〟の襟首を掴んだ状態で、閏乃はその顔を睨みつけた。

「てめーら鬼の食事を邪魔すんのが、俺達鬼喰みの仕事なんだよ」

底冷えするような青い炎が閏乃の眼球を照らしていた。


〝鬼〟の食事の犠牲になった人間を知っている。
〝鬼〟に喰われた後を知っている。




『――うるの』

長い髪が揺れる。


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