うるの黄昏




だからこそ、止めなければ。

「邪魔なのはお前だ、バカヤロウ」

もう一度、低く唸る。
そして制裁を仄めかすようにして掴んだ襟首を絞めた。
近距離に立つ「鬼」は、しかしびくともしない。
ただ真っ黒な眼を、しんと湛えているだけである。

(なんだこいつ。正気?正気なのか?)

知性を湛えるその眼は血に狂っている。
ギリギリ、まるで尽きぬ欲望のように。

――だから、か。
大股で距離を詰め、その手中に「鬼」を捕らえたというのに、閏乃の心臓は安心などしていなかった。
どくどくと跳ねるような蠢きが苦しい。

「お前、私に怯えているの?」

ぞ、と心臓に繋がる血管すべてが凍りつくような笑みを向けられた。
笑わない眼、嗤う眼。
閏乃はこの眼を知っている――。

「っ、」

思わずその体から手を離していた。
じりじり、指先が焼けつくように痛い。
見れば、爪は煤黒く、第一関節までの皮膚は赤く爛れていた。
〝鬼〟に向けていた筈の火が、何故か自分に還ってきた。

「長く生きてきたからね、反魂の唄くらいは聞いたことがある」

にこり。
〝鬼〟は先程とは違うにこやかな笑み――人間のような笑みを浮かべ、乱れた襟首を正して閏乃の前で踵を返した。

「……おい!ちょっと待たんかい!」

痛む手を抱え呼び止めるも、〝鬼〟は既に閏乃から関心をなくしたかのように振り向きもしなかった。
一人残された閏乃は眉間に深く皺を寄せる。

反魂の唄。
よもや〝鬼〟からその言葉を聞くとは思ってもみなかった。
その起源は平安。
かのアベノセイメイが在る鬼と対峙した時、その鬼の力を跳ね返したことだと謂われている。つまりは退魔に携わる者が身に付ける第一の能力なのだ。
それを鬼がやらかしたとなれば――。

(……ん、待てよ)

だが、その時対峙した鬼が、相手の力を喰らい、更に強くなる様相だったことに清明はヒントを得たと廻爾は言っていなかったか。
ならば鬼が知っていてもおかしくはあるまい。

『――永く生きてきた』

鬼の言葉を思い出す。
百年か千年――それ以上か。
どちらにせよ、用心するに値する〝鬼〟であることは確かなのだ。

(しかも……)

鬼が化けているとばかり思っていた〝女〟だったが、触って解ったことがある。

(いや、触るって、イヤらしい意味じゃなくて)

とにかく、あの「鬼」は一筋縄じゃいかない。

(……こりゃあいじける場合じゃないぞ、閏乃くんよ)

あの「鬼」は、司馬と手を組まなければ倒せない相手かもしれない。
意地を張るのを止めた閏乃は、隣りのクラスの「鬼」を警戒、牽制しつつ司馬にコンタクトを取ろうと必死だった。
しかし司馬はわざとなのか天然なのか、こちらの信号に気付かない。
わざとらしく授業中、隣クラスの前を通って見つめてみたり(これは教師に殴られて失敗したが)、休み時間、話しかけようとして、「次、移動教室なんだ」とかわされたり。
なにかとうまくいかない。
やはりわざとなのか。
或いは自分のやり方が不味いのか――そろそろ落ち込みかけた頃、放課後をもたらすチャイムが鳴った。

「オーイばか閏乃、保健室にこれ届けてくれるか」

いざチャンス、と教室を飛び出し掛けた背中に担任の横暴たる一言。

「教師たる者が生徒に向かってバカとか、まことに遺憾ですな」
「やかましい。授業サボった罰だ。届けるだけなんだからぶつくさ言うんじゃない」
「……俺だって暇じゃないんじゃい」

精一杯の抗議をしてはみるがはいはいとかわされ、結局保健室へと向かうことになった。
全員分の健康診断表を手に、ちらりと隣クラスを見てはみるが。

(ちぇっ、やっぱいねえや)

帰宅する者部活に出る者がごった返す中、司馬も〝鬼〟もいなかった。
そこでふと、昼休み時間、鬼に襲われた女性徒のことを思い出す。

(そういえば、大丈夫だったのか?まだ保健室で休んでるとなると……)

閏乃は弾けるように駆け出した。
まとめられていない健康診断表をばさばさと風に曝し、一階の保健室へと向かう。

(――あの時は司馬に邪魔されて食事できなかった筈だ)

あの知性の高い鬼のことだ。
自分の食事対象にもかなりの選り好みがあることだろう――人喰みの「鬼」が総じてそうあるように。

〝鬼〟は人外の生物の中でも特に餌にうるさい種族だ。
喰う餌によって各々の格が決まるくらいには「餌」を重視している。
食べやすく穢れていない、柔らかで、美しい「餌」。
反して醜く汚れきった餌をこのむ悪食の鬼もいる。

(もし鬼があの子を諦めてなかったとしたら?)

そうなればまた喰らいに赴くのではなかろうか。
なにせあの女の子はえらくきれいな顔をしていた。

(畜生!)

階段を全段飛ばしで降り、右手の廊下を長いコンパスで全速力。
何故か生徒達が見当たらない。
全校生徒がごった返す騒がしい放課後に、何故。

(人祓い?畜生、いやがる!)

――見えてきた白いドアはぴたりと閉まっていた。

保健医は留守らしい。
ではあの女の子も居ないのだろうか?

――否。

その空間に多少の歪みが見えるのは、「なに」かがいる証だ。
閏乃は全速力の勢いを失わぬまま、保健室のドアを蹴破った。


「おらぁっ!」

ドカッ。

「――あれ?」

威勢良く入ったはいいが、閏乃はそこに居た人物に眼を丸くした。
脱力して、思わずクラスの健康診断表を床にバラけてしまう。

「……元気だね」

呆れたような、驚いたような声を出し、投げ飛ばされたドアを横目に司馬は笑った。
司馬が立つすぐ横のベッドには襲われた女の子が横になっている。
顔はカーテンに隠れて見えないが、骨格からして彼女に間違いないだろう。

「……司馬、くん。なにしてるの、こんなところで」

司馬の柔らかで人懐こい笑みにやはり全身から力が抜ける。

「なにって……」

閏乃の問いかけに司馬は女の子を一瞥した。

「彼女を看てたんだ。もしかしたら昼には気付かなかったことがあるかもしれない、と思ってね」

その言葉に、閏乃は更に体が重くなるのを感じた。

(考えることは同じ、ってか?)

しかし同じだとて、またも先を越された形になる。
なんとも情けない諸行ではないか。
裏高野の鬼喰みともあろう男が。

「……なにかあったのかい?」
しかめ面を浮かべた閏乃に、司馬は怪訝そうな表情を浮かべた。
〝鬼〟について尋ねているのだろう。
閏乃は脱力したまま、散らばった健康診断表を掻き集めながら話すことにした。

「〝鬼〟のことで、解ったことがあるんです」

聞いてくれる?と司馬を見上げれば、司馬もプリントを拾ってくれていた。

「勿論、聞くよ」

申し訳ないね、と呟きながら、閏乃は立ち上がる。
〝鬼〟について、未だ定かではないかもしれないが。

「昼休み、司馬くんと別れてから、鬼と接触したよ」

プリントを保健医のテーブルの上に置くと、閏乃は自らが蹴り外したドアの修復にかかった。
幸い、噛み合わせが外れただけで大きな損害はない。
多少の歪みを直せば、またスムーズに開閉できるだろう。

「接触……、怪我はなかったの?」
「え?あぁ、平気」

司馬はいいヤツだなぁ、と彼に背中を向けながらしみじみ思う。
ガタゴト。ドアを取り付けたところで、閏乃は司馬と向かい合うように立った。
消毒液臭い室内は、耳が痛くなるほど静かだ。

「それで?」

司馬が神妙な顔で続きを促す。
夕陽が透けるカーテンを背後に、嫌に神々しく見える。

「……あの〝女の子〟さ、俺、鬼が化けているとばかり思ってたんだけど」

ふわり。窓が開いていたのか、少女を隠すカーテンが揺らいだ。
ふわふわと不特定な動きをするそれを抑えながら、司馬は閏乃の続きを待つ。

「触って解ったことがあるんです」

それを見つめながら言えば、司馬が目を丸くした。

「……触ったの?」
「いや、そんなイヤらしい意味じゃなくて、え、あの、誤解しないでね」

なんだか以前もしたような問答を挟み、閏乃は神妙な顔をして司馬を見つめ返した。
あの感触―――あれは。

「……あの子、本物の人間だったんだ」

恐らくは、鬼に体を乗っ取られているのだろう。
あの時、鬼を張り付けた瞬間――あれは絶対に、〝鬼〟が化けた体じゃない。
あんなに強く殺気立たなければ、司馬も閏乃も、〝鬼〟が〝鬼〟だとは気付かなかった筈だ。

――何故、わざわざ気付かせるような真似を?

「おかしいね……」

司馬が俯きながらそう漏らす。
おかしい。
そう、おかしいのだ。
それに頷きながらも、閏乃は騒ぐ胸を抑えた。

(……なんだ?)

なにかがおかしい。
符合が一致しない。
比叡山の使者、それと同調するように現れた正体を隠さぬ〝鬼〟、そして閏乃自身。
白いカーテンが揺れている。
ベッドに横たわったまま動かない犠牲者。


『――熱中症だよ』

ぶわり。
見えた、少女の手首。
昼休みに見た柔らかな皮膚ではない。
まるで水分を血液を喰われたかのような、皺渇れたそれ。
白いカーテンに揺られ、彼女の、顔、が。

「……っ、!」

呼吸が、止まる。
何故、彼は。

「…セいカ、ィ」

嗤っている?



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