うるの黄昏



――ゴッ……!

風の塊が閏乃の真正面にぶち当たってきた。
一瞬鼻がもげかけたが、そこはなんとかセーフだといえよう。

『比叡山』
『鬼』
『高野山』
『協定』

頭の中でシグナルだけが警鐘を鳴らす。

けれど今更、もう遅い。
じわじわと空気に滲む厭な気配に、思わず舌打ちが出た。
白く視界が霞むのは、司馬が纏う障気のせいだ。

「……ふふ。君は思ったより頭がイイらしい」

優しげでどこか愉快な口調は変わらないのに。

「でも遅かったねぇ。僕はもう、食事は終えてしまったよ」

ぎろり。
黄土色をした爬虫類の眼。
〝鬼〟の片鱗。

「司馬ぁ……」

ぐ、と拳に力を込める。
まさかまんまと騙されていたとは思いもしなかった。
苛立ちと驚きをを交えたまま、瞬間的に飛躍して司馬との距離を詰める。
その冷ややかな微笑をぶっ潰してやりたい、と、千切ったカーテンを楯にその顔をぶん殴った。

「……酷いなぁ」

けれど堪えてはいない。
当たり前だ。
人間を相手にするような戦闘方法じゃ、鬼にダメージは与えられない。
にやぁと司馬が嗤う。
腹が立つ。
もう一度ぶん殴って、床に頭をぶちつけた。

「……やられた」

まさか、司馬が〝人喰い〟だとは――。

「じゃあ比叡山の使者って?」

ガララララッ。
そんな呟きを漏らしたところで、背後からドアが開く音がした。
まさか保健医が帰ってきたのかと、司馬の頭を踏みつけながら振り向けば。

「あんた……」

――「少女」が、立っていた。

〝鬼〟であるとすっかり信じていたあの少女が、昼休みに見た姿と変わらぬまま、そこに。

そこでふと様々な考えが洪水のように閏乃を襲った。
司馬が〝鬼〟だった。

では、彼女は?
まさか彼女も〝鬼〟なのか?

(待て待て、閏乃。こりは一体どうなってるのか、ちゃんと冷静に考えなきゃいかん)

しかし考えたところで答えが出るわけもない。

「……久しぶりだね」

室内に入ってきた少女を認めた司馬が、いつの間にやら閏乃の脚から抜け出し、唇から血を吐きながら立ち上がった。

じわりと空中に滲むそれ。
血の匂いは人と同じもの――どうやら司馬の体も〝鬼〟に操られている〝人間〟のものらしい。

その司馬が、少女に。
どくり、と心臓が鳴る。
彼女はどう、答える?

「……そうでもない」

そうして少女は、静かな声でそう「鬼」に返した。

「ニ月前に会ったばかりだもの」

なんだそれは。
つまり、どういうことなのか。
微笑みを浮かべているのかいないのか、はっきりしない表情で少女はそう言った。
まるで友人にでも語りかけるようなそれらは、閏乃にぞっとする感覚を与える。

――「鬼」が、二匹。

ひとり緊張を解けぬまま、除け者状態だ。


(……まっじいなぁ)

少女に取り憑いている鬼の力は解らないが、今の今まで閏乃に悟らせなかった司馬のほうは相当なものではないか?
奴らふたりを相手にして、果たして学校が無事に済むか――。

(自分は問題ない。いざとなった引き際は心得ているし、逃げ足だけは自信がある)


「あの時も確か、こんなシチュエーションだったよね」

にこり。
閏乃が壁に身を寄せながらそんなことを考えていると、麗しげな笑みを浮かべた司馬が楽しげに呼吸を浅くした。

「……そうね」

同意を求められた少女は、やはり司馬の言葉に頷く。

「あれはどこだったかな……。あぁそうだ、確か新潟のほうだった。やっぱりこんな学校で、僕の餌と、なにも知らない一般人がひとり、――そして、君」

にたぁ。
司馬の口が異様に開かれたかと思えば、その口端は目尻まで伸びて所狭しと並ぶ鮫のような歯を露にした。

「全く、君には参ってしまう……」

ふう、とその裂けた口で吐息を吐く。
生臭い、まるで腐った野菜のにおいが辺りに充満した。
閏乃は思わず、鼻を摘まむ。

〝鬼〟の口臭は共通してクサイ。
笑ってしまうくらいクサイ。
だからいつも、嗅いでしまう前に喰らうのだが、今日はそうもいかなかった。

「あぁ、口惜しい」

ぎらぎらと生え揃う歯が鈍く光る。
司馬の端正な様相がどんどん歪んでいく。
本性が、〝司馬〟の体を借りて漏れ出ているのだ。

まるで彼と共有するように、姿を変えていく。
ぜえぜえと、吐く息が荒くなっていた。
ぶるぶると震える様は、怯えではなく、怒っている。

(怒りの矛先は?)

この状況を見る限りでは少女に向かっているのだろう。
友人という線は取り消しだ。

(じゃぁ)

思わず、閏乃は少女を見た。
その視線に気付いたように、少女も閏乃に視線を合わせる。
その視線がまるで可笑しなものを見ているかのように、笑いを堪えているようなものだったから、閏乃は更に混乱してしまった。

〝人〟に見えるのだ。

昼休みは確かに〝鬼〟に見えた少女が、今は確かに人に見える。

(なんだぁ……?)

しかし閏乃の疑問は、すぐさま解かれることとなった。


「あの日、お前さえあの場に居なければ、我は餌を喰ろうていたに。あぁ、あれから人の血ぃひとつ啜ってはおらん」

もはや司馬の姿ではなくなった鬼がつらつらと恨み言を吐く。

「このままだと干からびてしまう。あぁどうしよう、折角きれいな顔を手に入れたのに」

しかし鬼が語ったかと思えば、司馬のような口調になることもある。

(融解しきってない?鬼が憑ききってないのか?)

憑いた鬼、憑かれた人間。
双方の情報がごちゃまぜになっているのかもしれない。

そうして鬼の恨み言を聞いていた少女が、からりと笑った。

「あの時、お前が食べた美しい娘が一体なんだったのか……、お前は覚えているか?」

厭味な口調だった。
司馬に憑いた〝鬼〟を莫迦にするような、嗤うような。
閏乃は当然、事情が理解できない。
何事かと眉を寄せながら、ふたりを見守る。

「お前が今日、目をつけた女、とてもきれいな顔をしていたでしょう」

淡々と、けれど愉快を込めて笑う。

もはや閏乃には、彼女が〝鬼〟には見えなかった。
本物の〝鬼〟のほうは、血走った黄土色の眼をぎらりと見開くと、先程ふわふわと舞っていたベッドのカーテンをひきちぎる。


「あ」

悲鳴のような裂音を耳に、閏乃は思わず間抜けな声を出していた。
公共物の破壊損傷代は、程度が低いものであれば託僧自ら支払わなければならない。
ふざけた決まりを念頭に置いて、そのカーテンが幾らするのか思わず頭の中で計算する。

けれど〝鬼〟の関心は裂かれたカーテンではなく、それに隠されていた「餌」のほうだった。
先程閏乃が垣間見たひび割れた少女――だがそこに横たわっていたのは。

「人形……?」

掌仏像と同じ尺。
象牙色の肌は一糸纏わず、そのスタイルのいい裸体を惜しげもなく曝している。

――世間一般でいう「リカちゃん人形」である。
あの美しい少女はどこへ行ったのか。
ズブの素人でもない閏乃は、思わず吹き出してしまった。
それは「リカちゃん人形」の登場が面白かったわけでは決してない。

「自分が美しくなることばかり考えているから、同じ手に二度も引っかかる」

くつり。少女の糸のように細い唇が嗤った。
嗤われた〝鬼〟といえば、黄土色の瞳を朱色の地獄に変えて少女を睨みつけている。
そうしてふつふつと怒りが湧き出しているのだ。
大気を震撼させるようなそれは、巨大な邪念となって閏乃を蝕む。

(…そりゃあ怒るわなぁ)

つまりこの〝鬼〟は騙されたのだ。
先程の恨み言を総合すると、二度も。
しかも「リカちゃん人形」に。

――ださい。

思わずその間抜けっぷりに笑ってしまったが、冷静に考えるとは今度は可哀想になってくる。

「恥ずかしいやつ」

けれど少女は、もう一度トドメを刺すように嘲りに嗤った.
ぶちり。

「――この、比叡山の飼い猫めがぁああ!」

〝鬼〟の堪忍袋がとうとう限界を迎えたらしい。
怒りに任せ、眼にも止まらぬ速さで繰り出された野太い腕が少女を狙う。

「っ、」
悲鳴じみた砲吼に耳を痛くしながら、閏乃は条件反射でつい少女と鬼の間に割って入ってしまった。

「……っの、ばかぢからめ」

ギリギリ、とんでもない力を、なんとか食い止める。

「……コラコラ。防ぐ気がないなら挑発すんじゃないよっ。危ないでしょーが!」

伸びた鋭い爪を鼻先寸でで止め、閏乃は後ろを振り向かないまま少女を叱咤した。
錫杖を隠し持っていて良かったと心底から思う。
ただの金属など、鬼の体には傷ひとつ付けられないからだ。

「……ぬぅ、おおのれぇえええ」

鬼がギリギリと歯ぎしりした。
間近にある裂けた口からはやはりあのにおいが漂ってくる。
有機物が腐った臭い。

(あ、気分が悪くなってきた)

なので息を止めることにした。
鬼に圧され、塔婆型に連なった数個の環がしゃらりと鳴る。
背後の少女はいやに静かだ。

「――邪魔」

しかし唐突に、閏乃は脇腹に激しい衝撃を受けて真横に吹っ飛んだ。
壁にぶつかった勢いのまま錫杖は離さず、閏乃はただただ驚くしかない。
自分を真横に蹴り飛ばしたのは〝鬼〟ではなく、背後に庇っていた筈の〝少女〟だったからだ。



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