うるの黄昏
「こんばんは」
そうして柔らかに笑まれた閏乃は、思わず脱力してしまった。
閏乃の緊張が解れたのと同様に、司馬も多少落ち着いたらしい。
男は盲人だった。
しかし閉じられた瞼は眩しいまでに白く美しく、僧の持つべき清浄な気配を惜しみなく纏っている。
年老いて丸くなった廻爾とも先輩僧とも違うその雰囲気に少しばかり圧倒される。
この若さで、とは失礼な言い方ではあるが、まさにその一言に尽きるような気さえする。
(どの山にも、色んな人がおるのだなぁ)
「辻閏乃殿、ですね。裏高野の方達からお話は伺っております」
眼を動かせないというのに、目尻を柔らかく落としてこちらに懇意を伝えようとする。
辻閏乃――こちらの本名も把握済みというわけだ。
「はじめまして」
閏乃が慌てて頭を下げると、男はにこやかに笑みを浮かべたようだった。
それから緩やかに視線――気配を巡らせ、司馬を見る。
「……もう少しゆっくりと話をしてみたかったのですが、至急山に戻って彼を休ませてあげなくてはいけませんね」
やはり司馬にも穏やかで柔らかな笑みを向け、男はまるで見えているかのように司馬の手を取った。
その綺麗な手に触れることを恐るかのように震えた司馬を、声色で慰める。
「罪を改めるのは後からでも構いません。今はただ休み、そして貴方を待っていたご家族に元気な姿を見せてあげてください」
諭すような口調ではあるが嫌味ではない。
優しく言い聞かされているようで、司馬は思わずといった様子で泣き出した。
そんな司馬を修行僧に引き渡し、男は再び閏乃に向き直る。
「ところで、うちの遣いの姿が見えませんが……」
ぐるりと首を巡らせ、金袈裟の男は閏乃に尋ねてきた。
当然、閏乃は困る。
「えーと」
消えました、と果たして莫迦正直に言って良いものか。
閏乃が悶々と悩んでいると、屋上のドアが開いた。
「ここ」
一言、たったそれだけを発して現れたのはやはりあの少女だった。
一体どこに行っていたのか、など閏乃が尋ねられるわけもなく。
「……綺羅、貴方はまたふらふらして」
代わりに、呆れた顔を浮かべ男が彼女をたしなめた。
先輩僧――よりも上の位だろう男の言葉を受けても、少女は顔色を変えることなく閏乃を流し見る。
「腑抜けと一緒にいたら、私まで腑抜けになりそうだし」
高圧的な声色ではなく、ただ一定の音程で放たれたそれを厭味だと取るには多少の時間を要した。
黙っていれば大人しくも見える容姿からは想像もつかない台詞である。
そして、バカにされたと気付いて。
「誰が腑抜けじゃ!誰が!」
普段、悪ふざけはしても、周囲の同級生達より大人びて見えると定評の閏乃。
しかしそれはただの装いであって、中身は周りの同世代より短気なところがある。
普段のへらへらとした掴めないひょうきんぶりは、そう言った短気な面を自分自身で抑える役割を果たしているわけだが――今回は限界だったらしい。
「さっきから黙って聞いてればお前ね、初対面の人間に向かって間抜けだわ腑抜けだわ馬鹿だわ…会って数時間しか経ってない人間にそんなの言われる筋合いねぇよ!」
まさか穏やかそうな閏乃が声を荒げるとは思っていなかった――のは、金袈裟の男と司馬、他の修行僧だけだった。
肝心の綺羅、と呼ばれる少女は閏乃の台詞を真正面から受け止めながら眉ひとつ動かさない。
挙句の果てに。
「君は役立たずだよ、閏乃」
追い討ち。
まさかここまで来て反撃されるとは思っていなかった閏乃は呆けるしかない。
しかし少女はひやりとした表情のまま尚続けた。
「私がもしこの学校に派遣されていなかったら、君がもし司馬を鬼と見破っていなかったら」
ゾクリ、と背筋に這ったのは彼女の冷たい声が原因ではない。
「あの時、保健室で〝鬼〟に喰われたのは人形じゃない」
少女が言い放ってすぐ、彼女の怒気に呼応するかのように、花弁が腐ったような匂いが閏乃の鼻を突いた。
――〝鬼〟のにおい。
彼女と初めて眼を合わせた瞬間の、あの飲まれそうな、深い圧力。
肩、手足に重りを取りつけられたような感覚。
動けない。
「ひぃぃっ」
ヘリで司馬が怯えている。
鬼に憑かれている内に、神経も過敏になったらしい。
〝綺羅〟という名の少女から、得体の知れないなにかを感じ取っているのか。
(ヒトガタの式神……じゃない)
ではこの気配は。
まるでヒトを喰らう〝鬼〟のような、凶悪さと純粋。
「――」
けれどそれは、数秒後には再び霧のように消えて散った。
しかし冷や汗が吹き出すのを抑えられない。
閏乃が前にしている華奢な体からは、もうなんの圧力も感じなかった。
ただ冷ややかな視線はそのまま、閏乃を睨み付けている。
(もし、この子が居なかったら……)
閏乃は閏乃で、彼女の言葉に反論しかねる。
事実、彼女が現れていなければ惑わされることもなかったのだろうが、しかし――。
(司馬を鬼だと見抜けなかった)
そうなれば被害が出ていたのは確実なのだ。
「リカちゃん人形」ではなく、生身の人間が喰われて――。
「綺羅」
計らずも己の甘さを恥じた閏乃を庇うように、金袈裟の男は少女の名を呼んだ。
「貴方が戯れに氣(き)を発して、彼の動向を惑わせたのもまた事実ですよ。反省なさい」
穏やかな口調。
しかしだからこそ染みる。
しかし彼女、綺羅には微塵も届いていないようだった。
「噂に聞く役立たずが、どれだけ本当に役立たずなのか試しただけ」
とまあ、いけしゃあしゃあと言いやがる。
素直そうな外見からは想像もつかないような毒舌、そしてしらばっくれ振りだ。
閉口するしかない。
金袈裟の男もこれには呆れたらしい。
梅雨独特の生暖かい高湿の風に、深く吐かれた溜め息が溶けた。
「これ以上、貴方を閏乃殿と一緒にはできませんね」
「激しく同感」
呟かれた金袈裟に直ぐ様同意したのは閏乃ではなく綺羅自身だった。
閏乃はまた閉口する。
何故ここまで言われなくてはならないのか、素直に理由が知りたいわけだが。
しかし閏乃の心境などなんのその。
情けない眼で自分を見ている閏乃を一瞥し、綺羅は更に言い放った。
「こんな男といたら、私まで錆びる」
――グサリ。
苦手な異性が尚更苦手になった初夏。
辻閏乃、しょっぱい青春の一場面であった。