正義を裏返しても悪にはならない
正義を裏返しても悪にはならない


長く続く回廊の窓から見えるのは、明け方の近い、白みはじめた空。
キンッ、と冷たく張り詰めた空気は、吐く息を白色に染め上げていく。
寒々しい美しさを孕む景色。
その静寂を壊すように、場に似つかわしくない騒々しい足音が一つ。

「お待ちください兄上!」

必死に呼びかけているのに、前を早足で歩いている兄は見向きもしない。
背中から拒絶の意が伝わってくるのを無視して、小走りに変えた足で俺はようやく彼の肩を掴んだ。
兄上が足を止める。しかし、俺の顔を頑なに見ようとはしなかった。

「兄上、本気ですか!?<天楽>の発動など・・・。ありえない!どうか考え直してください!」

誰もいない回廊に俺の叫びが響く。
感情の制御ができないままに放った言葉は、主観的にも充分過ぎるほど悲痛に満ちていた。
反響が止み、あたりにもう一度静寂が訪れてから、兄上はゆっくりと顔を上げる。
俺より少しだけ高い位置にある瞳が、ゆるりと解けた。

「もちろん本気だよ。」

強く肩を掴んでいた手に、彼はそっと自分の片手を重ねる。
温かいそれに溶かされるように、徐々に俺の手から力が抜けていった。

「それに、もう術式自体は完成間近なんてことは、私より優秀なお前なら分かるはずだ。考え直す、なんて今更だろ?」

柔らかく笑っている兄。
余裕を纏う彼に、苛立ちと酷い焦燥に駆られる。

いつのまにか完全に力の抜けていた手から、兄が離れていった。
再び足音が響くその場に取り残されるのが、とてつもなく恐ろしい。

「・・・・だとしても!」

もう一度叫んだ俺を、兄は今度は半身だけ振り返って見た。
真っ直ぐ見つめてくれる瞳は、感情が希薄で冷たい。

なりふり構わず暴れだしそうな感情を、理性で無理矢理屈服させる。
戦争が多かったこの国の、兄こと現国王の補佐役として、何度もやってきたことだ。

感情だけではどうにもならないことがあると、俺は知っている。
常に理性的に動き、国にとっての最善策を選ばないといけない、己の役回りも理解している。

理解は、している。
しかし今回は、今回だけは納得できない。

たとえその瞳が冷たくても、兄は話だけは聞いてくれるらしい。
ならば俺も冷静にならなくては。

ひとつ、深呼吸。
次に吐いた言葉は、凪いだ湖のように静かだった。

「だとしても、兄上が<撃者>になる必要などありません。貴方は国王ですよ?最後まで国民を率いる義務がある。<撃者>は俺がやります。」

魔法発動への段階は二つ。

人々が各々持つ「呪力」を触媒とした、「力」の召喚。
そして、「力」を用いた、発動する魔法そのものの構築だ。
よって、まずは「力」を召喚しなくてはならない。

しかし、<天楽>の場合は必要な「力」が桁違いに多いのだ。

そのために使うものは、魔導師千人の命。
膨大な命と引き換えに、ようやく充分な「力」を手に入れられる。

さらに、召喚された「力」を<天楽>として構築する魔導師が必要となる。
何人かで召喚した「力」を用いて魔法を発動させた者を<撃者>と呼ぶ。

しかし、<天楽>の<撃者>は発動時にほぼ確実に死ぬ。
大きすぎる魔法は、それ相応の対価がいるのだ。
まさに、禁忌魔法の代名詞。

そして兄は、<撃者>は自分が務める、と言って一歩も引かないのだ。
国を守るべき、国王が。
その命を賭して、禁忌を犯そうとしている。

禁忌魔法を発動させることについては、ここ十年の戦歴を見れば口を噤まざるを得ない。

相手国の、色の名が与えられた天才魔導士たちは、本当に厄介すぎた。
<青>の部隊長だった少女とは、俺も何度か剣を交えたが、勝てたことはない。無様な敗走もしたことはないが。

全戦全敗に近い状態。
長年の戦歴をフルに使った戦略と、優秀な諜報を筆頭とした情報戦だけが、この国の完敗を回避していた。

そんなギリギリの状況ならば、盤上をひっくり返すべく、禁忌に手を伸ばしても仕方がないのかもしれない。

だが、そのために兄が命を使う必要などないのだ。

「わかっていないな、弟。」

雑に放り投げるよな口調。
先程までは冷たかった兄の黒い瞳には、いつのまにか燃えんばかりの焔が宿っていた。

「今まで軍の指揮を執っていたのは誰だ?」

ひくっ、と喉が鳴った。

「軍の指揮権は、お前が持っていただろ?」

淡々と、起伏の乏しい声は、じわりとした絶望を纏って心に染み込んでくる。

「僕は何もしていなかった。僕にはお前がいなくなったあと、兵士を率いることなんて出来ない。だから<撃者>は僕。これは決定事項だと、何度言えば納得してくれるんだ?」

「・・・っ!ですが!」

「これは正論だろ、弟。・・・もう黙れよ。」

最後に、突き放すように低く地を這う声で切り捨てられた。
もう言葉さえ出なくて、俺は俯いて唇を噛みしめる。

どうすれば、俺の思いが伝わるのだろう。
もどかしさに焼かれながらも、足掻き続けようと息を吸い・・・。

「陛下の気持ちも理解していただけませんか?弟君。」

・・・そして背後から凛とした声に遮られた。

聞き覚えのありすぎるそれに、慌てて振り向く。
足音を立てないように、ゆっくりと歩いてきていたのは、兄上の妻ーーすなわち義姉にしてこの国の王妃だ。

ピンッと伸ばした背筋が俺の前を通過する。
兄上の側に庇うように立った彼女は、美しい微笑を浮かべていた。

「義姉上・・・。」

義姉上と兄上の仲の良さは、城内でも周知の事実だった。
本当は誰よりも叫び出したいはずなのに、何も言わずその意思を受け止める姿勢。
凛とした彼女の前では、俺は反論を飲み込むしかなかった。

完全に黙った俺を見て、目元を苦しそうに歪めた義姉上は、だけど次の瞬間にはいつもと変わらない笑みを浮かべて兄上を振り返る。

「陛下、まもなく術式が完成しますわ。ご準備を」

「わかった。ありがとう、シャオ」

優しく微笑んだ兄上が、義姉上の頭に手を乗せて軽く撫で、ロングコートを翻して去っていく。
残された義姉上は俯いて唇を噛み締めていた。そんな彼女に、俺は何か言おうとして、でもやはり言葉が見つからない。

「ああ、そうだ」

ふ、と。
硬質な足音が止まり、兄上が今気づいた、とばかりに並び立つ俺たちを振り返る。

いつだって真っ直ぐこの国を想っていた彼は、死を前にしてなお、その瞳は光を失っていない。
黒色の光が、心に突き刺さって深い傷を残す。

「あとは任せた、ショット」

そして二度とその傷口は塞がらないのだ。

俺の名を呼んだ声。
生まれてから、常に隣にあったのに。
きっともう聞けない。

ああ、そうだ。
忘れていた。

ーーーーこれが、「死」か。

「っ!はい!」

ならば、俺はその思いを受け継ごう。
兄が守り通した、この国への忠誠心を。
そうすれば、彼は俺が生きる限り死なない。

そして、俺自身を支える剣となる。
それはきっと、何より強い剣に。

心を固め、しっかりと返事をした俺を見て、兄上は満足そうに笑っていた。
幾度目かの翻され、離れていく背中は、もう振り返ることはなく。
ようやく光が差し始めた回廊の奥へと、吸い込まれるようにして姿を消した。

「それでショット、<天楽>発動の後はどうするの?」

見送った背中を目に焼き付けてから、義姉上が俺に尋ねる。

どうするか、ね・・・。
その辺のことは、予め決めてあった。

「すぐに軍を編成します。明日の朝、あちらの国に攻め込みますから。通達をお願いできますか?」

「それはいいけど・・・。攻めるってどこへ?」

「砦です。<天楽>の落下地点を城にした場合、おそらく最前線であろう砦が一つだけ残ってしまうんですよ」

そう、そこには<青>の少女がいるはずなのだ。
次こそは、俺の手で殺す。

「・・・なるほどね、理解はしたわ。だけど、兵士はほとんど死んでしまうわよ?軍が編成できるほどの数が残っているかどうか・・・」

「なら、こうしてください」

人がいないのなら。

「国民から徴兵すればいい」

いるところから持って来ればいいのだ。

にっこりと笑った俺を見て、義姉上は何故か眉をひそめる。
信じられない、とでも言いたげな顔だった。

だって、兄上が命を投げ打ってまで勝とうとした戦争だ。
守られた国民には、最後まで戦う義務がある。

男も女も、老人も子供も関係ない。
勝利のために、少しでもたくさんの人を連れて行こう。

「では、頼みます」

呆然とした義姉上を置いて、俺は振り返って歩き出す。
兄上が行った方向とは、反対方向へ。

待っててください、兄上。

必ず、勝ちます。

全て壊して、殺して、何もかも消しますから。

貴方のために。

磨き上げられた鏡に、口を歪めて笑う俺が映っている。
それは酷く狂っていたのに、誰にも気づかれず放り出された。


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