タイム・トラベル
道なりに歩きながら、私は考えていた。
明日で旅行が終わる。明後日にはイングランドを去らなければいけない。
楽しい思いも怖い思いもした。綺麗な場所もそうでない場所も目にした。
だけどまだみつけられない。デニスがどこにいるのかわからない。
――よく自転車で旅をしたよ。
デニスはイングランドにいた頃も、たびたび旅行に出かけたらしい。
――田舎の村を回るのが好きだった。家族と毎日電話で連絡を取るっていう約束がついてきたけど、イングランド中を回った。
たぶん彼は心から旅行が好きだったのだろう。旅の話をする時、デニスは僅かに表情を和らげていた。
――ある時、ランズ・エンド岬まで行こうとした時があったんだけど。体調を崩してしまって、結局辿りつけなかった。
デニスは苦笑して話してくれたことがある。
――迎えに来てくれたリチャードは、もう行くなって叱ったけど……できるなら、また行ってみたい。
私はふと立ち止まった。
「デニス?」
一瞬、デニスの気配を感じた。
匂いも体温もない。けれど彼の静かな眼差しを受けたような気がした。
「……デニスっ」
道から離れて、原っぱを駆けだす。
どこにいるの、デニス。
私には信じられないんだ。君はまだどこかで生きているような気がしてならないんだ。
君が亡くなったと聞いて三年間、あっという間に過ぎてしまった。
でも私の中では、君は少しも変わりがない。少しも、君に近付けた気がしない。
このままじゃ一生近付けない気がして、怖くなったんだ。
――今度はどこに行くの、デニス。
――次は……。
いつもデニスは一人で旅行に行った。
だけどある時、たった一度だけ私に振り向いて言ったことがある。
――智子、君も一緒に行くか?
それがどこだったか、何度考えても思い出せない。
ただ、私は行かなかった。それだけを覚えている。
「待って……」
道なき原野を、私は息を切らして走る。
行きたかったんだ、デニス。
あの時私に僅かな勇気さえあれば、ついていったんだ。
……たとえ世界の果てでも、君と一緒なら行ってみたかった。
つまずいて、私は前に転ぶ。
体は痛くなかった。土は存外に柔らかかった。
「つ」
だけど頬に触れたちくりとしたものを、私は倒れたまま見る。
それは短い草だった。よく見ると、辺り一面に生えている。牧草というにはしおれていて、何かの役に立つとも思えない。
灰色に近いような緑だった。その色が、デニスの瞳の色と重なる。
――僕は帰るよ、智子。
唐突に、別れ際のデニスの言葉を思い出す。
――イングランドの地に。僕はいつでもそこにいる。
二月という真冬に草が生えているということは、ここは一年中緑で覆われているのだろう。
デニスは少し屈んで、私の頬に顔を近づけた。
けれど彼は触れる寸前で止まって顔を離すと、右手を差し出した。
きょとんとしている私から右手をそっとすくいあげて、デニスは握手した。
――春になったらイングランドへおいでよ。
デニスはさよならとも、またねとも言わなかった。
――うん。行くよ。絶対行く。
今、緑の大地に横たわって微笑む。
「ここに……いたんだ」
デニスは確かにこの地に還ったのだ。
イングランドに着いた時からずっと、私はデニスと一緒にいたのだ。
会いたかったよ、デニス。
ぽた、と地面に涙が落ちた。ぽろぽろとどんどん零れていく。
そして、痛切にここを離れたくないと思う。
誰も来ない原野の中に隠れてしまいたい。誰にも迷惑をかけない場所をみつけて、そこでうずくまって永遠の緑をみつめ続けてはいけないだろうか。
仰向けに寝転んで、私は薄曇りの空を見上げる。
覆いかぶさるような雲は、手を伸ばせばつかめそうだった。
目を閉じようとして、私はふと気付く。
遥か遠くに雲の切れ間ができたかと思うと、そこから光が差し込んできた。
――ともこさん。げんきですか。
三年前の春、デニスの訃報を聞いて呆然としていた私に、リチャードはメールを送って来た。
――がっこうにいっていますか。かぜをひいた、ききました。しんぱいです。
まだ日本語を勉強し始めで漢字が使えなくて、辞書を引きながら書いたのがわかるような文章だった。
リチャードは繰り返しメールをくれた。私が拙い英語で返信すると、リチャードはやはり拙い日本語で送り返してきた。
――ともこさん。デニスについて行ってはいけません。
時には厳しい口調で、弱気になる私を叱った。
――デニスと、ともこさんは、べつの人です。デニスも、ともこさんに、ついてきてほしい、思っていません。
ここに旅行に来ることを連絡した一番新しいメールでも、リチャードはおどけながら書いてきた。
――デニスのこと考えるのもいいけど、僕のこと忘れないでよ。僕泣いちゃうよ。
……それは嫌だな、と思う。
このイングランドで私一人消えてしまっても、気づく人はほとんどいないだろう。
でもリチャードは気づく。明後日の朝にホテルへ迎えに行くと、昨日言っていたのだから。
雲の切れ間が広がっていく。緑のじゅうたんに光の溜まりが出来る。
デニスとリチャードは顔立ちが似ている。けれどデニスは落ち着いた灰緑に近い瞳をしていて、リチャードは子どものような澄んだ緑の瞳をしている。目の色一つを取ってみても全然違う。
今目の前に広がる光景は、気づけば太陽の光で輝かしい緑に変わっていた。
その緑を縫うように、遠くに道が一本走っている。
――リチャードは怒ると怖いんだよ。
私は体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。
たぶん、そうなんだろうね。デニス。なんとなく想像できるよ。
リチャードは心配性だし、面倒見がいいから、悪いことをすると本気で叱ってくるだろうね。
怒られたくないなぁ、と難しい顔をする。
命のない世界はたぶん甘い夢に満ち溢れているのだろうけど、私はまだあの光が照らし出す色彩をみていたいと思う。
深呼吸をして、一歩前に踏み出した。
たぶんイングランドで一番私を待っていてくれる人のところに、私は歩き始めた。
夜八時頃にホテルの前まで戻って来た時、ロビーのソファーにかけている人をみつけて私は立ち竦む。
上質なグレーのスーツに身を包んだ、足の長い外国人だった。ネクタイが少し歪んでいるけど、私はここまでスーツが似合う人を見たことがなかった。
ダークブロンドの髪が微かに首の後ろにかかって、いい耳の形をしているのが見えた。
その人はホテルの玄関の方を見ながら時折靴のつま先で床を叩いていた。裏口から入って来た私は後ろ姿では一瞬誰かわからなかったけど、そっと声をかける。
「……リチャード?」
私の呼びかけに、彼は反射的というように立ち上がって振り向いた。
「あ、ああ。智子さん」
「こんなところでどうしたの?」
どう見ても仕事帰りといった感じだ。私はいつもと雰囲気の違うリチャードに若干不思議な心地がしながらも、その表情がくるりと動いたことに安心する。
「ひどいー。智子さん、なかなか帰って来ないんだもん」
表情はおどけているけど、私はリチャードの声に不安が混じっていたことに気付く。
彼はまじまじと私の全身を眺めて問う。
「どうしたの? 転んだ?」
「寝転んでた。別に怪我とかはしてないよ」
私は土を軽く払ってみる。
「ついてる」
リチャードは手を伸ばして、私の鼻の頭を拭った。
「ぶひー」
「何をする」
ついでに鼻の頭を押してくるので、私はむっとする。
「おかえり」
ふいにリチャードは優しく言った。
「君をイングランドに招いたのはデニスだけど、君を日本に帰すのは僕の役目だと思ってるから」
「……リチャード」
「よく言うでしょ? 家に帰るまでが遠足ですって」
首を傾けて笑ってから、リチャードは胸を張る。
「僕も今日はお仕事がんばりました。褒めて」
「はいはい。えらいえらい」
「だから明日は、君にめいっぱい楽しい思いをしてもらいます」
「え?」
実はストーンヘンジに行ったら目的の大半は済んだから、明日の計画を私はまるで立てていなかった。
「任せておいて。じゃあ朝七時半くらいに部屋へ迎えに行くからね。朝ごはんは食べなくていいよ。今日はゆっくりおやすみ」
ぽんと私の頭を叩いて、リチャードは去っていった。
私は部屋に戻って、ベッドの上で足を伸ばす。
結局ストーンヘンジからソールズベリまで歩いて四時間くらいかかった。それからはバスに乗ったものの、足は棒のようで眠気が緩く周りを取り巻く。
「あれ……直ってる」
いつの間にか、最初の日には壊れていたベッドライトが点灯していた。
その夜は何も考えず、ただ眠った。
明日で旅行が終わる。明後日にはイングランドを去らなければいけない。
楽しい思いも怖い思いもした。綺麗な場所もそうでない場所も目にした。
だけどまだみつけられない。デニスがどこにいるのかわからない。
――よく自転車で旅をしたよ。
デニスはイングランドにいた頃も、たびたび旅行に出かけたらしい。
――田舎の村を回るのが好きだった。家族と毎日電話で連絡を取るっていう約束がついてきたけど、イングランド中を回った。
たぶん彼は心から旅行が好きだったのだろう。旅の話をする時、デニスは僅かに表情を和らげていた。
――ある時、ランズ・エンド岬まで行こうとした時があったんだけど。体調を崩してしまって、結局辿りつけなかった。
デニスは苦笑して話してくれたことがある。
――迎えに来てくれたリチャードは、もう行くなって叱ったけど……できるなら、また行ってみたい。
私はふと立ち止まった。
「デニス?」
一瞬、デニスの気配を感じた。
匂いも体温もない。けれど彼の静かな眼差しを受けたような気がした。
「……デニスっ」
道から離れて、原っぱを駆けだす。
どこにいるの、デニス。
私には信じられないんだ。君はまだどこかで生きているような気がしてならないんだ。
君が亡くなったと聞いて三年間、あっという間に過ぎてしまった。
でも私の中では、君は少しも変わりがない。少しも、君に近付けた気がしない。
このままじゃ一生近付けない気がして、怖くなったんだ。
――今度はどこに行くの、デニス。
――次は……。
いつもデニスは一人で旅行に行った。
だけどある時、たった一度だけ私に振り向いて言ったことがある。
――智子、君も一緒に行くか?
それがどこだったか、何度考えても思い出せない。
ただ、私は行かなかった。それだけを覚えている。
「待って……」
道なき原野を、私は息を切らして走る。
行きたかったんだ、デニス。
あの時私に僅かな勇気さえあれば、ついていったんだ。
……たとえ世界の果てでも、君と一緒なら行ってみたかった。
つまずいて、私は前に転ぶ。
体は痛くなかった。土は存外に柔らかかった。
「つ」
だけど頬に触れたちくりとしたものを、私は倒れたまま見る。
それは短い草だった。よく見ると、辺り一面に生えている。牧草というにはしおれていて、何かの役に立つとも思えない。
灰色に近いような緑だった。その色が、デニスの瞳の色と重なる。
――僕は帰るよ、智子。
唐突に、別れ際のデニスの言葉を思い出す。
――イングランドの地に。僕はいつでもそこにいる。
二月という真冬に草が生えているということは、ここは一年中緑で覆われているのだろう。
デニスは少し屈んで、私の頬に顔を近づけた。
けれど彼は触れる寸前で止まって顔を離すと、右手を差し出した。
きょとんとしている私から右手をそっとすくいあげて、デニスは握手した。
――春になったらイングランドへおいでよ。
デニスはさよならとも、またねとも言わなかった。
――うん。行くよ。絶対行く。
今、緑の大地に横たわって微笑む。
「ここに……いたんだ」
デニスは確かにこの地に還ったのだ。
イングランドに着いた時からずっと、私はデニスと一緒にいたのだ。
会いたかったよ、デニス。
ぽた、と地面に涙が落ちた。ぽろぽろとどんどん零れていく。
そして、痛切にここを離れたくないと思う。
誰も来ない原野の中に隠れてしまいたい。誰にも迷惑をかけない場所をみつけて、そこでうずくまって永遠の緑をみつめ続けてはいけないだろうか。
仰向けに寝転んで、私は薄曇りの空を見上げる。
覆いかぶさるような雲は、手を伸ばせばつかめそうだった。
目を閉じようとして、私はふと気付く。
遥か遠くに雲の切れ間ができたかと思うと、そこから光が差し込んできた。
――ともこさん。げんきですか。
三年前の春、デニスの訃報を聞いて呆然としていた私に、リチャードはメールを送って来た。
――がっこうにいっていますか。かぜをひいた、ききました。しんぱいです。
まだ日本語を勉強し始めで漢字が使えなくて、辞書を引きながら書いたのがわかるような文章だった。
リチャードは繰り返しメールをくれた。私が拙い英語で返信すると、リチャードはやはり拙い日本語で送り返してきた。
――ともこさん。デニスについて行ってはいけません。
時には厳しい口調で、弱気になる私を叱った。
――デニスと、ともこさんは、べつの人です。デニスも、ともこさんに、ついてきてほしい、思っていません。
ここに旅行に来ることを連絡した一番新しいメールでも、リチャードはおどけながら書いてきた。
――デニスのこと考えるのもいいけど、僕のこと忘れないでよ。僕泣いちゃうよ。
……それは嫌だな、と思う。
このイングランドで私一人消えてしまっても、気づく人はほとんどいないだろう。
でもリチャードは気づく。明後日の朝にホテルへ迎えに行くと、昨日言っていたのだから。
雲の切れ間が広がっていく。緑のじゅうたんに光の溜まりが出来る。
デニスとリチャードは顔立ちが似ている。けれどデニスは落ち着いた灰緑に近い瞳をしていて、リチャードは子どものような澄んだ緑の瞳をしている。目の色一つを取ってみても全然違う。
今目の前に広がる光景は、気づけば太陽の光で輝かしい緑に変わっていた。
その緑を縫うように、遠くに道が一本走っている。
――リチャードは怒ると怖いんだよ。
私は体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。
たぶん、そうなんだろうね。デニス。なんとなく想像できるよ。
リチャードは心配性だし、面倒見がいいから、悪いことをすると本気で叱ってくるだろうね。
怒られたくないなぁ、と難しい顔をする。
命のない世界はたぶん甘い夢に満ち溢れているのだろうけど、私はまだあの光が照らし出す色彩をみていたいと思う。
深呼吸をして、一歩前に踏み出した。
たぶんイングランドで一番私を待っていてくれる人のところに、私は歩き始めた。
夜八時頃にホテルの前まで戻って来た時、ロビーのソファーにかけている人をみつけて私は立ち竦む。
上質なグレーのスーツに身を包んだ、足の長い外国人だった。ネクタイが少し歪んでいるけど、私はここまでスーツが似合う人を見たことがなかった。
ダークブロンドの髪が微かに首の後ろにかかって、いい耳の形をしているのが見えた。
その人はホテルの玄関の方を見ながら時折靴のつま先で床を叩いていた。裏口から入って来た私は後ろ姿では一瞬誰かわからなかったけど、そっと声をかける。
「……リチャード?」
私の呼びかけに、彼は反射的というように立ち上がって振り向いた。
「あ、ああ。智子さん」
「こんなところでどうしたの?」
どう見ても仕事帰りといった感じだ。私はいつもと雰囲気の違うリチャードに若干不思議な心地がしながらも、その表情がくるりと動いたことに安心する。
「ひどいー。智子さん、なかなか帰って来ないんだもん」
表情はおどけているけど、私はリチャードの声に不安が混じっていたことに気付く。
彼はまじまじと私の全身を眺めて問う。
「どうしたの? 転んだ?」
「寝転んでた。別に怪我とかはしてないよ」
私は土を軽く払ってみる。
「ついてる」
リチャードは手を伸ばして、私の鼻の頭を拭った。
「ぶひー」
「何をする」
ついでに鼻の頭を押してくるので、私はむっとする。
「おかえり」
ふいにリチャードは優しく言った。
「君をイングランドに招いたのはデニスだけど、君を日本に帰すのは僕の役目だと思ってるから」
「……リチャード」
「よく言うでしょ? 家に帰るまでが遠足ですって」
首を傾けて笑ってから、リチャードは胸を張る。
「僕も今日はお仕事がんばりました。褒めて」
「はいはい。えらいえらい」
「だから明日は、君にめいっぱい楽しい思いをしてもらいます」
「え?」
実はストーンヘンジに行ったら目的の大半は済んだから、明日の計画を私はまるで立てていなかった。
「任せておいて。じゃあ朝七時半くらいに部屋へ迎えに行くからね。朝ごはんは食べなくていいよ。今日はゆっくりおやすみ」
ぽんと私の頭を叩いて、リチャードは去っていった。
私は部屋に戻って、ベッドの上で足を伸ばす。
結局ストーンヘンジからソールズベリまで歩いて四時間くらいかかった。それからはバスに乗ったものの、足は棒のようで眠気が緩く周りを取り巻く。
「あれ……直ってる」
いつの間にか、最初の日には壊れていたベッドライトが点灯していた。
その夜は何も考えず、ただ眠った。