タイム・トラベル
小さな村は、一時間くらいで一回りできた。
私は霧雨の中に佇むはちみつ色の家々を、一枚写真に撮って出発することにした。
「イングランド最初の観光、どうだった?」
車に乗り込んでまもなく、リチャードが切り出してきた。
「古き良き村だった。デニスの言った通り」
「ふむ」
リチャードは頷いて言う。
「ただね、古いだけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「黄色い看板と漢字を見かけなかった?」
そういえば、と私は首をひねる。
「あったね。あれって何?」
「中華料理屋さん」
こんな田舎に中華とは、と少し驚く。
「現代のイングランドは移民が多いからよくある風景なんだよ」
「そういえば……」
私はふと思い返して言う。
「デニスは、田舎の風景に異質な光景が混じるのを好ましくは見てなかったみたいだ」
「あの子は人種差別とかしないんだけど、正統とか純粋ってことにこだわりがあったからね」
リチャードはアクセルを踏みながら呟く。
「リチャードは?」
「うん、僕?」
「外から入って来たものはよくないと思う?」
忘れそうになるけど、デニスの兄ということは彼にも青い血の自負があるはずだ。
「君はなかなか答えにくいことをさらっと訊くね」
リチャードは苦い笑みを浮かべながら言う。
「あのね、智子さん。僕は社会で働いてるけど、その中で先祖代々イングランド人なんて一割もいないわけ。地下鉄に乗ってもごっちゃまぜ。混じりたくなくても、もうとっくに混じってるの。その中で、移民の是非を問うのは今更って気がするね」
そこでリチャードは口元を歪める。
「ただ、感情は事実に伴っていかなくて。差別は現にあるし、僕も気をつけてはいるつもりだけど……どこかで彼らによそ者意識は持ってるかも。それも差別といえるかもしれないね」
「なるほど」
「ごめんね。どうにも曖昧な答えしかできなくて」
私は少し俯いて、ひょいと顔を上げる。
「ううん。リチャードは真面目なんだよ。私は考えたこともなかった」
リチャードに振り向いて、私は続ける。
「私はリチャードが差別感情を持ってるかはわからないけど。リチャードがチャーハンもカレーも好きなことは知ってるよ。寿司もね」
一瞬リチャードは黙って、くすっと笑う。
「うん。お寿司大好き」
口調は子どもっぽいのに妙に優しく笑うから、私はなんとなく言葉を付け加える。
「……ただ、日本人がいつも寿司ばかり食べてるわけではないことは、お忘れなきよう」
「はいはい」
子どもをあやすように言ってから、リチャードはまた笑った。
「次の目的地に行く前に、どこかでお昼食べていこうか。何食べたい?」
「じゃあせっかくなので、有名なイングランド料理をお願いします」
「有名っていうとあれだね。了解」
車を東に走らせながら、リチャードは頷いた。
牧草地の間を道路が時折曲がりながら走っている。一本道で、枝分かれすることはめったにない。
その中で珍しく分かれ道があったので私が見ていると、リチャードが声を上げる。
「ここを北に行くと、ストラトフォード・アポン・エイボンだよ」
「ああ、シェイクスピアの故郷だっけ」
「そーそ。君は彼の作品でどれが好き?」
私は首をひねって考える。
「そうたくさんは知らないんだけど、『十二夜』は一気に読んだ」
「知らないわりにはマニアックなところを突くね」
「デニスが最初に貸してくれた本なんだ。私がシャイクスピアは難しそうって言ったら、『じゃあこの辺りから始めてみなよ。脚注は読まなくていいから』って」
そうしたら意外なほどさらさらと読めた。男装した女の子を中心としたおかしみのあるストーリーに、すぐに取り込まれた。
それに、リチャードは軽く頷く。
「なるほどね。デニスらしいな」
「どの辺が?」
「あの子、悲劇より喜劇の方が圧倒的に好きだったから。シャイクスピアで一番好きな作品も、確か『真夏の夜の夢』だったし」
「ちょっと意外だ」
デニスはシェイクスピアの現存する本すべてを読んで、台詞すら空で言えるくらいだった。もっとマイナーなものを選んでくるかと思ったのだ。
「すごくパックが好きだったみたい」
「妖精パック? あの悪戯っ子でハチャメチャなことをする?」
「うん。彼みたいな存在になれたら、違う世界が見えただろうなって」
パックは登場人物たちを混乱させる困った子で、けれど憎めない、どこかかわいらしい妖精だったと記憶している。
「まあ、デニスとは似ても似つかない。あえて言うならリチャードみたいだ」
「そう? 僕、学校の劇でパック演じたことあるんだぁ」
「誰が選んだかわからないけど、はまり役だね」
私はふと思いついて、リチャードに振り向く。
「リチャードはどれが好きなの?」
「『ロミオとジュリエット』ー。やっぱさ、一度はバルコニーでロミオとジュリエットごっこするでしょ」
「しないよ。考えたこともないよ」
「えー、僕三回くらいやったよ。男友達でだけどさ。ちなみに全部僕がジュリエット役」
そんなことをわいわい言っている内に、また小さな村に着いた。
今度は石垣がなく、わりと大きな道路が通っている村だった。家はベージュかこげ茶の壁で、大きさはどこも同じくらいだ。人通りも多くて、雨だというのに皆傘もささずにさっさと歩いている。
リチャードについていって坂道を上っていくと、人魚の形をした看板があった。外にはメニューも置いてあるけど、字体が特殊だからあまり読めない。
「大丈夫。君が頼みたいものはちゃんとあるから」
「そっか」
こくんと頷いて、私はリチャードと一緒に店の中に入った。
カウンターの向こうに店員のお姉さんがいた。彼女はリチャードが近付くとちょっと身を乗り出す。
注文を取る間、お姉さんはにこにこしていた。私がここまで会って来たイングランドの人は親切だけどクールな印象で、お姉さんみたいに愛想全開な人は初めて見た。
「智子さん、次君だよ」
「うん」
私は前に進み出て、お姉さんに注文をした。
店員のお姉さんは気安く頷いて了解してから、ちょっと私に近付いて小声で言った。
『彼、あなたのボーイフレンド?』
男だし友達なのも間違いないが、この場合のニュアンスは彼氏という意味だ。
『友達のお兄さん』
『あら、それは複雑な関係ね』
『あ、はい』
私は頷いてリチャードが既にかけている席へと向かう。
「何話してたの?」
「うん。あなたと彼は複雑な関係かって」
「ハハ」
要約して答えると、リチャードは苦笑した。
「To two-timingって言いたかったんじゃないかな」
「何それ?」
「さあねぇ。それとも君との年の差が犯罪的だと言いたかったのかもねー」
リチャードにはぐらかされてごちゃごちゃ言っている内に、食事が運ばれてきた。
「こ、これがかの有名なフィッシュアンドチップス」
「ええ、イングランドのファーストフードですよ」
イングランド料理で真っ先に名前が挙がるというそれは、白身魚とポテトのフライがセットになっている料理だ。
「……大きい」
魚は大皿の端から端まであり、フライドポテトは山盛りで、つい私はのけ反ってしまった。
「普通こんなもんだよ。まあいっぱい食べなよ。君の背もちょっとは伸びるかもしれない」
こっちの人にとってはこれが標準サイズなのか。あまりの驚きで、リチャードの軽口に怒る気にもならない。
「いただきます」
見ているだけでは何なので、私はナイフとフォークで切り分けて食べることにした。
ぱく、とひとくち口に放り込んで、飲みこむ。
「意外だ。おいしい」
魚はカラッとあがっていて、ほどよい塩けの味わいだった。
「喜んでいいのか微妙なコメントだね」
「ごめん」
「いやいや。わかってるよ。これが余所でどんな評判かは」
失礼ながら、まずくて有名な料理だと聞いていた。それはもう、目を覆うほどの批判の数々があちこちに氾濫していた。
「ちゃんと店を選べば美味しいということが理解して頂けたでしょうか」
「よくわかりました」
イングランド料理とコックさん、ごめんなさいと私は心の中で呟く。
さすがに大きすぎて全部は食べ切れなかったけど、フィッシュアンドチップスも、一緒に出てきた紅茶もおいしく頂いた。
「リチャード」
「なぁに?」
お会計をする前に、私はそっと小声で気になっていたことを問いかける。
「ここってチップ要る?」
「ううん。ここはいらないよ。まあ別に払いたければ払えばいいけど」
どういう区別をしているのかは不明ながら、リチャードは軽く答えた。さすがチップに慣れた国の人だ。
お会計を済ませて、ダウンコートを着込んでから席を立つ。
『……』
リチャードが店員のお姉さんに何か言って、お姉さんが諦めたように手を上げたのが見えた。
「さっき、店を出る時何て言ったの?」
その後、近くのお店でお母さんへのお土産である刺繍キットを買ってから、ふと私は思い出して訊いてみた。
「彼女と駆け落ち中だから僕のことは諦めてって言ったの」
「……なんかもう、どこから直していいのかわからない」
恥ずかしくて二度とあの店に行けない。
そう思いながら、私は坂道の上から、雨でけぶる淡い家々の光景を目に焼き付けていた。
私は霧雨の中に佇むはちみつ色の家々を、一枚写真に撮って出発することにした。
「イングランド最初の観光、どうだった?」
車に乗り込んでまもなく、リチャードが切り出してきた。
「古き良き村だった。デニスの言った通り」
「ふむ」
リチャードは頷いて言う。
「ただね、古いだけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「黄色い看板と漢字を見かけなかった?」
そういえば、と私は首をひねる。
「あったね。あれって何?」
「中華料理屋さん」
こんな田舎に中華とは、と少し驚く。
「現代のイングランドは移民が多いからよくある風景なんだよ」
「そういえば……」
私はふと思い返して言う。
「デニスは、田舎の風景に異質な光景が混じるのを好ましくは見てなかったみたいだ」
「あの子は人種差別とかしないんだけど、正統とか純粋ってことにこだわりがあったからね」
リチャードはアクセルを踏みながら呟く。
「リチャードは?」
「うん、僕?」
「外から入って来たものはよくないと思う?」
忘れそうになるけど、デニスの兄ということは彼にも青い血の自負があるはずだ。
「君はなかなか答えにくいことをさらっと訊くね」
リチャードは苦い笑みを浮かべながら言う。
「あのね、智子さん。僕は社会で働いてるけど、その中で先祖代々イングランド人なんて一割もいないわけ。地下鉄に乗ってもごっちゃまぜ。混じりたくなくても、もうとっくに混じってるの。その中で、移民の是非を問うのは今更って気がするね」
そこでリチャードは口元を歪める。
「ただ、感情は事実に伴っていかなくて。差別は現にあるし、僕も気をつけてはいるつもりだけど……どこかで彼らによそ者意識は持ってるかも。それも差別といえるかもしれないね」
「なるほど」
「ごめんね。どうにも曖昧な答えしかできなくて」
私は少し俯いて、ひょいと顔を上げる。
「ううん。リチャードは真面目なんだよ。私は考えたこともなかった」
リチャードに振り向いて、私は続ける。
「私はリチャードが差別感情を持ってるかはわからないけど。リチャードがチャーハンもカレーも好きなことは知ってるよ。寿司もね」
一瞬リチャードは黙って、くすっと笑う。
「うん。お寿司大好き」
口調は子どもっぽいのに妙に優しく笑うから、私はなんとなく言葉を付け加える。
「……ただ、日本人がいつも寿司ばかり食べてるわけではないことは、お忘れなきよう」
「はいはい」
子どもをあやすように言ってから、リチャードはまた笑った。
「次の目的地に行く前に、どこかでお昼食べていこうか。何食べたい?」
「じゃあせっかくなので、有名なイングランド料理をお願いします」
「有名っていうとあれだね。了解」
車を東に走らせながら、リチャードは頷いた。
牧草地の間を道路が時折曲がりながら走っている。一本道で、枝分かれすることはめったにない。
その中で珍しく分かれ道があったので私が見ていると、リチャードが声を上げる。
「ここを北に行くと、ストラトフォード・アポン・エイボンだよ」
「ああ、シェイクスピアの故郷だっけ」
「そーそ。君は彼の作品でどれが好き?」
私は首をひねって考える。
「そうたくさんは知らないんだけど、『十二夜』は一気に読んだ」
「知らないわりにはマニアックなところを突くね」
「デニスが最初に貸してくれた本なんだ。私がシャイクスピアは難しそうって言ったら、『じゃあこの辺りから始めてみなよ。脚注は読まなくていいから』って」
そうしたら意外なほどさらさらと読めた。男装した女の子を中心としたおかしみのあるストーリーに、すぐに取り込まれた。
それに、リチャードは軽く頷く。
「なるほどね。デニスらしいな」
「どの辺が?」
「あの子、悲劇より喜劇の方が圧倒的に好きだったから。シャイクスピアで一番好きな作品も、確か『真夏の夜の夢』だったし」
「ちょっと意外だ」
デニスはシェイクスピアの現存する本すべてを読んで、台詞すら空で言えるくらいだった。もっとマイナーなものを選んでくるかと思ったのだ。
「すごくパックが好きだったみたい」
「妖精パック? あの悪戯っ子でハチャメチャなことをする?」
「うん。彼みたいな存在になれたら、違う世界が見えただろうなって」
パックは登場人物たちを混乱させる困った子で、けれど憎めない、どこかかわいらしい妖精だったと記憶している。
「まあ、デニスとは似ても似つかない。あえて言うならリチャードみたいだ」
「そう? 僕、学校の劇でパック演じたことあるんだぁ」
「誰が選んだかわからないけど、はまり役だね」
私はふと思いついて、リチャードに振り向く。
「リチャードはどれが好きなの?」
「『ロミオとジュリエット』ー。やっぱさ、一度はバルコニーでロミオとジュリエットごっこするでしょ」
「しないよ。考えたこともないよ」
「えー、僕三回くらいやったよ。男友達でだけどさ。ちなみに全部僕がジュリエット役」
そんなことをわいわい言っている内に、また小さな村に着いた。
今度は石垣がなく、わりと大きな道路が通っている村だった。家はベージュかこげ茶の壁で、大きさはどこも同じくらいだ。人通りも多くて、雨だというのに皆傘もささずにさっさと歩いている。
リチャードについていって坂道を上っていくと、人魚の形をした看板があった。外にはメニューも置いてあるけど、字体が特殊だからあまり読めない。
「大丈夫。君が頼みたいものはちゃんとあるから」
「そっか」
こくんと頷いて、私はリチャードと一緒に店の中に入った。
カウンターの向こうに店員のお姉さんがいた。彼女はリチャードが近付くとちょっと身を乗り出す。
注文を取る間、お姉さんはにこにこしていた。私がここまで会って来たイングランドの人は親切だけどクールな印象で、お姉さんみたいに愛想全開な人は初めて見た。
「智子さん、次君だよ」
「うん」
私は前に進み出て、お姉さんに注文をした。
店員のお姉さんは気安く頷いて了解してから、ちょっと私に近付いて小声で言った。
『彼、あなたのボーイフレンド?』
男だし友達なのも間違いないが、この場合のニュアンスは彼氏という意味だ。
『友達のお兄さん』
『あら、それは複雑な関係ね』
『あ、はい』
私は頷いてリチャードが既にかけている席へと向かう。
「何話してたの?」
「うん。あなたと彼は複雑な関係かって」
「ハハ」
要約して答えると、リチャードは苦笑した。
「To two-timingって言いたかったんじゃないかな」
「何それ?」
「さあねぇ。それとも君との年の差が犯罪的だと言いたかったのかもねー」
リチャードにはぐらかされてごちゃごちゃ言っている内に、食事が運ばれてきた。
「こ、これがかの有名なフィッシュアンドチップス」
「ええ、イングランドのファーストフードですよ」
イングランド料理で真っ先に名前が挙がるというそれは、白身魚とポテトのフライがセットになっている料理だ。
「……大きい」
魚は大皿の端から端まであり、フライドポテトは山盛りで、つい私はのけ反ってしまった。
「普通こんなもんだよ。まあいっぱい食べなよ。君の背もちょっとは伸びるかもしれない」
こっちの人にとってはこれが標準サイズなのか。あまりの驚きで、リチャードの軽口に怒る気にもならない。
「いただきます」
見ているだけでは何なので、私はナイフとフォークで切り分けて食べることにした。
ぱく、とひとくち口に放り込んで、飲みこむ。
「意外だ。おいしい」
魚はカラッとあがっていて、ほどよい塩けの味わいだった。
「喜んでいいのか微妙なコメントだね」
「ごめん」
「いやいや。わかってるよ。これが余所でどんな評判かは」
失礼ながら、まずくて有名な料理だと聞いていた。それはもう、目を覆うほどの批判の数々があちこちに氾濫していた。
「ちゃんと店を選べば美味しいということが理解して頂けたでしょうか」
「よくわかりました」
イングランド料理とコックさん、ごめんなさいと私は心の中で呟く。
さすがに大きすぎて全部は食べ切れなかったけど、フィッシュアンドチップスも、一緒に出てきた紅茶もおいしく頂いた。
「リチャード」
「なぁに?」
お会計をする前に、私はそっと小声で気になっていたことを問いかける。
「ここってチップ要る?」
「ううん。ここはいらないよ。まあ別に払いたければ払えばいいけど」
どういう区別をしているのかは不明ながら、リチャードは軽く答えた。さすがチップに慣れた国の人だ。
お会計を済ませて、ダウンコートを着込んでから席を立つ。
『……』
リチャードが店員のお姉さんに何か言って、お姉さんが諦めたように手を上げたのが見えた。
「さっき、店を出る時何て言ったの?」
その後、近くのお店でお母さんへのお土産である刺繍キットを買ってから、ふと私は思い出して訊いてみた。
「彼女と駆け落ち中だから僕のことは諦めてって言ったの」
「……なんかもう、どこから直していいのかわからない」
恥ずかしくて二度とあの店に行けない。
そう思いながら、私は坂道の上から、雨でけぶる淡い家々の光景を目に焼き付けていた。