溺愛彼氏
「ただいま」
結婚する前のこと。
ある日突然、もみじくんが言った。
“おかえり、ただいまっていいよね”
“突然ですね”
“ただいまって言ったら、おかえりって返ってくるんだよ。待っててくれる人がいるなんて温かいよね”
その会話をふと、思い出した。
電車を降りて改札を出ればいつもの場所にもみじくんの姿。
「お待たせしました」
「いーえ」
家までの道のりをふたりで並んで歩くことに最近やっと慣れてきた。もみじくんの家。そう思っていた場所が今では自分の帰る場所になっているのだから本当に凄いな。
なんて、最後「凄いな」で締めくくるあたり、小学生の感想文みたいだけれど。本当に凄いと思う。
仕事がどうでこうで、あーだ、こーだ。他愛もない話をしていれば家に着いた。
鞄から至極当たり前のようにもみじくんがキーケースを出そうとする。
「もみじくん。ちょっと待って!」
「なにごとですか?」
それを阻止した私の言葉にもみじくんの手は止まった。
「なに?」という視線を浴びながら私はいそいそと、自分の鞄の中からキーケースを取り出す。
「少し待っててください」
「え」
「準備が出来たらLINEをするのでそれ通りにお願いします」
「え、あんず?」
そう言い残し鍵を開けてひとり、扉の向こうの暗闇へ足を踏み込む。
「え、放置プレイですか?」
もみじくんの声がかすかに聞こえたけれど、聞こえていないフリをしてもみじくんを外に残し部屋へと入った。
電気のスイッチを押して明かりをつけ。
玄関に戻る。これで準備は完了。
スマホを取り出し画面の上で指を滑らせた。
《ピンポーン》
鳴ったインターフォンに玄関の扉を開ける。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
パッといきなり顔を出せば驚いて、一瞬肩を上下に震わせたもみじくん。
「もみじくんが前に言っていたことを思い出したら言いたくなりました」と言えば眉尻を下げて嬉しそうにもみじくんは笑ってくれた。
素敵な言葉のキャッチボール。
「おかえりなさい」