溺愛彼氏
「もう一度聞かせて」
休日。ソファでコーヒーを飲みながら購入したばかりのミステリー小説を読んでいれば目の前のローテーブルであんずのスマホが鳴った。
ちらりと見えてしまった電話の相手に僕がいるこの状況であんずはどうするんだろうかなんて思って。要するに僕は不安なわけで。
ミステリー小説どころではない。
「あんず、鳴ってるよ」
「……」
スマホを手にしたあんずは僕に申し訳なさそうに言葉を溢す。
「もみじくん、私ちょっと電話してきます」
「なんで、ここでしたらいいよ」
「いや、でも仕事の話だから」
あんずが僕に気を使ってくれているのは分かっている。この男となにもないことも分かっている。仕事の話だって分かっている。
でも、分かっていても、嫌なものは嫌で。
君は僕だけの奥さんだから。
立ち上がって電話をしに行こうとするあんずの腰に腕を回し、再びソファの上に連れ戻した。
離してくれない僕に諦めたあんずは、そのまま通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、瀧です」
未だに、彼女が誰かに“瀧”と名乗っているのを聞くと少しだけ胸が弾む。大好きな人が自分と同じ苗字を名乗っていることがこんなに嬉しいことだなんて知らなかった。
「どうしたんですか?」
《ーーーー、》
微かに電話の向こうで声が聞こえるが、会話の内容までは分からない。と、あんずは突然盛大にため息を溢し「……すみません、渡すの忘れてました」と電話越しに頭をぺこぺこと下げはじめる。
「本当にすみません」
《ーーーー、》
「え、いまですか……」
“いま”あんずの溢したその言葉に咄嗟にあんずの腰に回した腕に力を込めた。
ぎゅっと。「行かないで」その言葉の代わりみたいに。
僕って本当にしょうもない。高校生じゃあるまいし、既に結婚しているのにこんなに好きで、好きでたまらないなんて。
どうして、好きには際限がないんだろう。どんどんあんずのことを好きになっていく。
電話をしているあんずが僕に振り返り、瞳がこちらを向いた。瞳はゆらりと揺らいで、なにかを決めたみたいに、唇を開いてすっと柔らかく言葉を落とした。
「楓くん、すみません。明日の朝一で会社に持って行くでもいいですか?」
《ーーーーーー、》
「はい、本当にすみません。大好きな人と一緒なので」
突然落とされたその言葉に口元が緩む。どうして君は、そんなに僕を喜ばせて、虜にさせるのが上手いの?
「はい、失礼致します」
電話を終えたあんずに耐えきれず、耳元に「ねぇ」と音を落とす。
「なんの話してたの?」
「……会議の資料渡すの忘れてて。その電話でした」
少し頬を赤らめながら一生懸命に言葉を紡ぐあんず。ぎゅっとあんずを抱きしめる腕にまた力を入れる。
僕が心配しているって多分分かってくれていて。でもいま、僕が聞きたいのはそこじゃない。
「ふーん」
「……あの、もみじくん」
「なんですか?」
「そろそろこの腕を解いてはくれませんか?苦しい……です」
「嫌です」
僕を上機嫌にさせたあんずが悪いよ。なんて思って、彼女の背中に思わず、すりすりと顔を寄せる。
もう一度、聞きたい。君の口から僕に向けて。
「さっきの、もういっかい言ってよ」
「どれ、ですか……?」
「あんずは、いま誰と一緒にいるんですか?」
「え、もみじくんです……」
みるみる真っ赤に染まるあんず。耳まで真っ赤で、それがたまらなく僕の心を擽るから、ついからかいたくなってしまう。
「さっきはそんな言い方してなかった」
「あの、」
「うん」
少しの間のあと、腰に回った僕の腕を遠慮がちに握りしめるとあんずはぽつりと呟いた。
「……大好きな人と、一緒にいます」
鼓動が速くなる。自分で言わせておいてなんだけど、心臓が持たないかもなんて思った。
けれど、これから先何度でも聞きたい。