君のせいで僕は生まれた
私はせめて掃除でもして帰ろうと思って、洗面所に向かう。
だけど桐人の部屋は綺麗だ。物を出しっぱなしにしないし、無駄なものは買わないから、いつもきちんと片付いている。
私はだんだんと普段手をつけないような、たとえば棚の隙間やテレビの奥を掃除し始める。
「あ。これ、郁の」
それで、古いビデオテープをみつけた。ラベルには、「入学式」、「六年生運動会」など、郁の学校行事がずらっと並ぶ。
桐人は郁の学校行事に必ず出て、そのたびにビデオを取る。でも実は、その中身を私は一度も見たことがなかった。
郁の学校行事には、もちろん私も出ている。でも桐人の目を通して見てみたいなと思った。
桐人は古い演劇のビデオを見るために、家に旧式のビデオレコーダーを置いている。私はそれのスイッチを入れる。
懐かしい映像が流れ始める。
小学校の入学式、郁が私と手をつないで桜の下を歩いている。あどけない郁の顔を見て、頬がほころぶ。
ママ、と郁が呼ぶ。内緒話をしようと私の袖を引いてはしゃぐ。
私がお母さんだと、何の疑いも持っていない笑顔だった。
そう呼ばれるたびどれだけ嬉しかっただろう。かがみこんで郁の内緒話を聞いている私を、画面の外から見ていた。
別のテープを入れると、六年生の運動会だった。
「大丈夫だよ」
桐人の声が聞こえる。レンズの向こうには、不安が張り付いた私の顔があった。
「せっかくたくさん練習したのに、転んだりしたら……」
「大丈夫。郁は転んだって立ち上がるよ」
何度桐人に大丈夫と言われても、私はおろおろしながら白線の先を見ていた。
リレーが始まる。郁はこのときアンカーで、郁が走り終わるまで私は一瞬も目が逸らせない。
バトンが郁に渡って、私は泣きそうな顔で見守る。
そのとき、郁が接触して転ぶ。悲鳴を飲み込んで、私は息を吸う。
本当は、もういいよと言いたかった。郁は練習のときからたくさん転んで痛い思いをした。泣いて私のところに戻ってきたなら、抱きしめてあげられる。
「大丈夫よ!」
私の声を、郁がどんな気持ちで聞いたかは知らない。
ただ郁は立ち上がって、前だけ見て走った。
五位でバトンを受けて、結果は二位だった。
「お母さん。だめだった」
一番になれなかった。後で私のところに戻ってきた郁は、そう言ってぼろぼろ泣いていた。
がんばったからいいよなんて、言えなかった。そんな言葉は郁の気持ちにはあまりに安い。
何も言えずに郁の前でうつむいている私を、桐人のビデオが見ていた。
別のビデオは、つい最近のことになる。
それは郁の学校行事ではなくて、私の友達の結婚式のときだった。
桐人の友達でもあったから、桐人も来ていてビデオを撮っていた。
違和感が胸をついた。
確かに友達も映っているけど、ピントが合っていない。桐人はもっと近くを撮っている。
それは桐人の隣のテーブルで、郁と斗真、私が三人で話している。
斗真は決して桐人の方を見ない。全身で桐人を気にしながらも、振り向けない。
そんな斗真にどうしていいかわからず、他愛ない話でごまかす私と、やはり桐人の方を気にしている郁がいる。
最初は斗真を撮っているのかなと思った。一緒には暮らさなかったけれど、桐人と斗真の間には他人にはわからない思いがある。
でも違っていた。桐人はその中から一人を選んで、食い入るようにみつめる。
それは、紅の着物姿の……。
「知らなかっただろ」
横から手が伸びてきて、私の手の上からビデオを止める。
現実に戻ってくる。息が触れるようなところに桐人がかがんでいて、私を見下ろしていた。
「俺がいつもひなに見とれてたなんて」
桐人が私を見るときに、瞳に映す色。ずっと見ないようにしていたそれを、間近でみつめることになる。
「桐人、手」
「斗真はずっと知ってた。郁も気づき始めてる」
ビデオは止まったのに、桐人は私の手を押さえたままだった。
その手は温かいのか冷たいのかもわからない。
「だから俺をひなに寄せ付けないんだ。あの子は賢いな」
「手を」
離してほしい?
自分がわからなくなったとき、桐人はその言葉を口にする。
「俺が本当は誰とセックスしたかったか、知りたいか」
私は恐怖に追いつかれて、おもいきり桐人の手を振り払っていた。
「やめて!」
拒絶を口にした私を、桐人はそれ以上追い詰めたりしなかった。
そろそろと私から距離を取ると、大切そうにビデオを背中に隠す。
「……うん。俺もずっと秘密にしておくつもりだったよ」
ごめんとつぶやいて、桐人は部屋を後にする。
部屋に残った私は、空になったビデオデッキをみつめたまま、動くことができなかった。
郁と同じ十二歳だった頃、私の世界は静かだった。
母と義父の鷹生さんの愛情に包まって、安息の中にいた。
でも桐人がそこにセックスを持ち込んだとき、世界は少しずつ変わり始めた。
桐人は隠していたけど、なんとなくは私も気づいていた。
桐人が私に向ける感情に戸惑って、見ないふりをしていただけ。それはよくないものだと、恐れていたから。
でも斗真が桐人に恋をするのは止められなかった。斗真が桐人にセックスを向けたとき、私は大切な弟も恐れるようになった。
心が桐人のせいだと悲鳴を上げていた。
私は家族のくれた、愛の世界にいたかった。弟さえも恐れるような、恋とセックスは見たくなかった。
見たくないのに……どうしてその世界は、愛の隣にあるのだろう。
「郁、入ってもいい?」
何度考えてもめげてしまいそうだったから、私は郁の部屋の扉をノックした。
桐人のマンションを訪ねなくなって、一週間が経とうとしていた。
「いいよ」
郁の声が返って来て、私は扉を開く。
暗い部屋の中、手作りのプラネタリウムが天井を照らしていた。
「ひなちゃんも一緒に見ようよ」
「うん。そうする」
郁は床に寝転がって天井を見上げていて、私もその隣に寝そべる。
郁が手でプラネタリウムを動かすと、夜空も動いていく。
星を見ると子どもの頃を思い出して、どうしても泣きたくなる。守られていた頃が懐かしくなる。
気持ちをまぎらわそうと郁の方を見ると、彼は胸の上に何かを置いていた。
「それ」
「この間お父さんと買ってきたんだ」
「でも」
繰り返しそれをさする郁に、私は不思議に思って言う。
「それは双眼鏡じゃなくて、オペラグラスっていうの。星や鳥を見るものじゃないんだよ」
郁の大好きなものは、もっと遠くを映さないといけないよ。私がそう言うと、郁はうなずいた。
「知ってる。でもこれがいいんだ」
郁は口をへの字にして言う。
「これは桐人さんを見るためのものだから」
息を飲んだ私に、郁は続ける。
「桐人さんはこれからどんどん遠くにいっちゃって、僕は劇場の隅っこでしか見れないでしょ」
オペラグラスをさすって、郁はうつむく。
「……でも見たいんだよ」
そのとき、桐人に出会ったときを思い出した。
隣の席で初めて見た桐人は、綺麗すぎて話しかけることもできなかった。
話しかけたのは斗真だった。斗真が桐人に興味を持ったのはすぐにわかった。
でも当時、桐人は今より激しい性格だった。斗真のことが勘に触ったらしく、刃のようなまなざしで斗真をにらみつけた。
私は慌てて、鞄から小包を引っ張り出しながら言った。
ごめんね。あなたが好きなものも、嫌いなものも、まだなんにも知らなかったの。
よかったら食べてねと言って、前日に手作りしたクッキーを差し出した。
私は実際、何も知らなかった。桐人が子どもながらモデルをしていて、太らないためにお菓子を食べないでいたこと。
でも……本当はお菓子が好きなことも知らなかった。
恐る恐る私が差し出したいびつなクッキーを桐人はつかんで、言った。
私、これ大好き!
初めて見た桐人の笑顔は、とびきりかわいかった。
「ありがとね、郁。思い出したよ」
郁はいつも私に教えてくれる。
「そうね。好きな人はみつめていたいね……」
たとえ時間は流れても、同じ場所にはいなくても、持ち続けるものはある。
恋と愛とセックス。どれも違うけど、ゼロ距離でつながった瞬間があったはずだった。
うつろう星空を郁と見上げる。久しぶりに頬を涙がつたった。
それから一か月後、桐人が主演を勝ち取った次の舞台を、郁と二人で見に出かけた。
「僕も行っていいのかな」
「もちろん」
出発の直前までためらっていた郁に、私は笑う。
「郁が桐人を見たいって思うように、桐人だって郁を見たいと思ってるんだよ」
相手が自分を嫌っていると思っている、不器用な二人は、よく似た親子だと思う。
劇場に入って郁と席につく。
桐人は自分で言う通り、まだ役者としては駆け出しだ。小さな舞台だから、一番後ろの席でもよく見えるはずだ。
でも私もオペラグラスを買った。郁と同じように神妙に膝の上に置いて、舞台の始まりを待つ。
今度はどんな姿で現れるのだろう。桐人、またあなたが望む姿に近づけた?
あなたがこれから、どんな姿に変わっていくとしても。私はあなたが好きで、あなたをみつめ続ける。
幕が上がる。
桐人の笑顔を初めて見たあの日のように、どきどきしていた。
だけど桐人の部屋は綺麗だ。物を出しっぱなしにしないし、無駄なものは買わないから、いつもきちんと片付いている。
私はだんだんと普段手をつけないような、たとえば棚の隙間やテレビの奥を掃除し始める。
「あ。これ、郁の」
それで、古いビデオテープをみつけた。ラベルには、「入学式」、「六年生運動会」など、郁の学校行事がずらっと並ぶ。
桐人は郁の学校行事に必ず出て、そのたびにビデオを取る。でも実は、その中身を私は一度も見たことがなかった。
郁の学校行事には、もちろん私も出ている。でも桐人の目を通して見てみたいなと思った。
桐人は古い演劇のビデオを見るために、家に旧式のビデオレコーダーを置いている。私はそれのスイッチを入れる。
懐かしい映像が流れ始める。
小学校の入学式、郁が私と手をつないで桜の下を歩いている。あどけない郁の顔を見て、頬がほころぶ。
ママ、と郁が呼ぶ。内緒話をしようと私の袖を引いてはしゃぐ。
私がお母さんだと、何の疑いも持っていない笑顔だった。
そう呼ばれるたびどれだけ嬉しかっただろう。かがみこんで郁の内緒話を聞いている私を、画面の外から見ていた。
別のテープを入れると、六年生の運動会だった。
「大丈夫だよ」
桐人の声が聞こえる。レンズの向こうには、不安が張り付いた私の顔があった。
「せっかくたくさん練習したのに、転んだりしたら……」
「大丈夫。郁は転んだって立ち上がるよ」
何度桐人に大丈夫と言われても、私はおろおろしながら白線の先を見ていた。
リレーが始まる。郁はこのときアンカーで、郁が走り終わるまで私は一瞬も目が逸らせない。
バトンが郁に渡って、私は泣きそうな顔で見守る。
そのとき、郁が接触して転ぶ。悲鳴を飲み込んで、私は息を吸う。
本当は、もういいよと言いたかった。郁は練習のときからたくさん転んで痛い思いをした。泣いて私のところに戻ってきたなら、抱きしめてあげられる。
「大丈夫よ!」
私の声を、郁がどんな気持ちで聞いたかは知らない。
ただ郁は立ち上がって、前だけ見て走った。
五位でバトンを受けて、結果は二位だった。
「お母さん。だめだった」
一番になれなかった。後で私のところに戻ってきた郁は、そう言ってぼろぼろ泣いていた。
がんばったからいいよなんて、言えなかった。そんな言葉は郁の気持ちにはあまりに安い。
何も言えずに郁の前でうつむいている私を、桐人のビデオが見ていた。
別のビデオは、つい最近のことになる。
それは郁の学校行事ではなくて、私の友達の結婚式のときだった。
桐人の友達でもあったから、桐人も来ていてビデオを撮っていた。
違和感が胸をついた。
確かに友達も映っているけど、ピントが合っていない。桐人はもっと近くを撮っている。
それは桐人の隣のテーブルで、郁と斗真、私が三人で話している。
斗真は決して桐人の方を見ない。全身で桐人を気にしながらも、振り向けない。
そんな斗真にどうしていいかわからず、他愛ない話でごまかす私と、やはり桐人の方を気にしている郁がいる。
最初は斗真を撮っているのかなと思った。一緒には暮らさなかったけれど、桐人と斗真の間には他人にはわからない思いがある。
でも違っていた。桐人はその中から一人を選んで、食い入るようにみつめる。
それは、紅の着物姿の……。
「知らなかっただろ」
横から手が伸びてきて、私の手の上からビデオを止める。
現実に戻ってくる。息が触れるようなところに桐人がかがんでいて、私を見下ろしていた。
「俺がいつもひなに見とれてたなんて」
桐人が私を見るときに、瞳に映す色。ずっと見ないようにしていたそれを、間近でみつめることになる。
「桐人、手」
「斗真はずっと知ってた。郁も気づき始めてる」
ビデオは止まったのに、桐人は私の手を押さえたままだった。
その手は温かいのか冷たいのかもわからない。
「だから俺をひなに寄せ付けないんだ。あの子は賢いな」
「手を」
離してほしい?
自分がわからなくなったとき、桐人はその言葉を口にする。
「俺が本当は誰とセックスしたかったか、知りたいか」
私は恐怖に追いつかれて、おもいきり桐人の手を振り払っていた。
「やめて!」
拒絶を口にした私を、桐人はそれ以上追い詰めたりしなかった。
そろそろと私から距離を取ると、大切そうにビデオを背中に隠す。
「……うん。俺もずっと秘密にしておくつもりだったよ」
ごめんとつぶやいて、桐人は部屋を後にする。
部屋に残った私は、空になったビデオデッキをみつめたまま、動くことができなかった。
郁と同じ十二歳だった頃、私の世界は静かだった。
母と義父の鷹生さんの愛情に包まって、安息の中にいた。
でも桐人がそこにセックスを持ち込んだとき、世界は少しずつ変わり始めた。
桐人は隠していたけど、なんとなくは私も気づいていた。
桐人が私に向ける感情に戸惑って、見ないふりをしていただけ。それはよくないものだと、恐れていたから。
でも斗真が桐人に恋をするのは止められなかった。斗真が桐人にセックスを向けたとき、私は大切な弟も恐れるようになった。
心が桐人のせいだと悲鳴を上げていた。
私は家族のくれた、愛の世界にいたかった。弟さえも恐れるような、恋とセックスは見たくなかった。
見たくないのに……どうしてその世界は、愛の隣にあるのだろう。
「郁、入ってもいい?」
何度考えてもめげてしまいそうだったから、私は郁の部屋の扉をノックした。
桐人のマンションを訪ねなくなって、一週間が経とうとしていた。
「いいよ」
郁の声が返って来て、私は扉を開く。
暗い部屋の中、手作りのプラネタリウムが天井を照らしていた。
「ひなちゃんも一緒に見ようよ」
「うん。そうする」
郁は床に寝転がって天井を見上げていて、私もその隣に寝そべる。
郁が手でプラネタリウムを動かすと、夜空も動いていく。
星を見ると子どもの頃を思い出して、どうしても泣きたくなる。守られていた頃が懐かしくなる。
気持ちをまぎらわそうと郁の方を見ると、彼は胸の上に何かを置いていた。
「それ」
「この間お父さんと買ってきたんだ」
「でも」
繰り返しそれをさする郁に、私は不思議に思って言う。
「それは双眼鏡じゃなくて、オペラグラスっていうの。星や鳥を見るものじゃないんだよ」
郁の大好きなものは、もっと遠くを映さないといけないよ。私がそう言うと、郁はうなずいた。
「知ってる。でもこれがいいんだ」
郁は口をへの字にして言う。
「これは桐人さんを見るためのものだから」
息を飲んだ私に、郁は続ける。
「桐人さんはこれからどんどん遠くにいっちゃって、僕は劇場の隅っこでしか見れないでしょ」
オペラグラスをさすって、郁はうつむく。
「……でも見たいんだよ」
そのとき、桐人に出会ったときを思い出した。
隣の席で初めて見た桐人は、綺麗すぎて話しかけることもできなかった。
話しかけたのは斗真だった。斗真が桐人に興味を持ったのはすぐにわかった。
でも当時、桐人は今より激しい性格だった。斗真のことが勘に触ったらしく、刃のようなまなざしで斗真をにらみつけた。
私は慌てて、鞄から小包を引っ張り出しながら言った。
ごめんね。あなたが好きなものも、嫌いなものも、まだなんにも知らなかったの。
よかったら食べてねと言って、前日に手作りしたクッキーを差し出した。
私は実際、何も知らなかった。桐人が子どもながらモデルをしていて、太らないためにお菓子を食べないでいたこと。
でも……本当はお菓子が好きなことも知らなかった。
恐る恐る私が差し出したいびつなクッキーを桐人はつかんで、言った。
私、これ大好き!
初めて見た桐人の笑顔は、とびきりかわいかった。
「ありがとね、郁。思い出したよ」
郁はいつも私に教えてくれる。
「そうね。好きな人はみつめていたいね……」
たとえ時間は流れても、同じ場所にはいなくても、持ち続けるものはある。
恋と愛とセックス。どれも違うけど、ゼロ距離でつながった瞬間があったはずだった。
うつろう星空を郁と見上げる。久しぶりに頬を涙がつたった。
それから一か月後、桐人が主演を勝ち取った次の舞台を、郁と二人で見に出かけた。
「僕も行っていいのかな」
「もちろん」
出発の直前までためらっていた郁に、私は笑う。
「郁が桐人を見たいって思うように、桐人だって郁を見たいと思ってるんだよ」
相手が自分を嫌っていると思っている、不器用な二人は、よく似た親子だと思う。
劇場に入って郁と席につく。
桐人は自分で言う通り、まだ役者としては駆け出しだ。小さな舞台だから、一番後ろの席でもよく見えるはずだ。
でも私もオペラグラスを買った。郁と同じように神妙に膝の上に置いて、舞台の始まりを待つ。
今度はどんな姿で現れるのだろう。桐人、またあなたが望む姿に近づけた?
あなたがこれから、どんな姿に変わっていくとしても。私はあなたが好きで、あなたをみつめ続ける。
幕が上がる。
桐人の笑顔を初めて見たあの日のように、どきどきしていた。