彼の毒は蜜色の雨のように甘い


***



「ちょっと先輩、そろそろ許してくれませんか?」

「許さない。こっち来んな。」

廊下の端と端で歩きながら交わされた、幾度目かの同じ会話に、俺はこっそり溜息をついた。
生徒会室を出てから、一度も寄って来ないどころか、寄ることさえ出来ない。
ある意味自業自得ではあるのだが、地味に辛かった。

長く、とても長く続いたキスは、先輩の足から力が抜けて崩れ落ちるまで終わらなかった。
本当はもっとしたかったのだが、床に座り込んだ先輩が「もう、むりぃ・・・」と蕩けた顔で言ってきたので、なんとか止まった。

あれはヤバかった。
続けてたら、確実に理性飛ばして、欲望のまま限界まで求めていたはず。
流石に学校で盛るのは勘弁願いたい。

それからさっきの倍のスピードで書類を書き上げた先輩は、さっさと帰宅しようという思いが分かりやすすぎて、逆に面白かった。
そんなこと絶対口には出せないけど。

「あっ・・・。」

昇降口まで来た先輩が、外を見て絶句する。
その視線を辿ると、原因はすぐに察せられた。

生徒会室を出る直前までは綺麗な茜色だった空から、いつのまにか雨が降り出していたのだ。

「うわぁ・・・。ついてないなぁ。」

「結構強いですね。傘あります?」

「ない・・・。今日に限ってない。」

「残念ながら、俺もです。」

日頃の距離まで詰めてみたが、先輩はチラッと見ただけで何も言わなかった。
どうやらようやく許しが出たらしい。

二人して無言で、外を見る。
曇天に覆われた世界は灰色がかっていて、誰もいないせいか一層寂しく思えた。
沈黙を、絶えず響く雨音だけが埋めていく。

(さて、どうしたものか。)

俺は学校近くの、徒歩5分程度の距離にあるマンションで一人暮らしをしているので、ある程度なら濡れても問題ない。
しかし先輩は、確か徒歩20分くらいはかかったはずだ。

止むまで待とうかと考えたが、一向に弱まる気配すらない。むしろどんどん強まっていて、早く行動に移らないと帰れなくなってしまいそうだった。

「李緒先輩、お兄さんは迎えに来れないんですか?」

「あー、兄さん今日明日家にいないんだわー。父さんに連れていかれた。」

いやホントついてない、と先輩が頭を抱える。

俺の脳内に、夏に一度会った、類い稀なる才能を家族のためだけに使うシスコン兄と、そんな兄を強引に引き連れながら豪快に笑う父親の姿が浮かんだ。

なんでも、父親が友達と起業したIT企業の本社に、天才的プログラマーの兄を手土産として持っていったらしい。
片親である先輩の母親役として、昔から世話を焼いていた兄上殿のシスコンぶりは凄まじく、今日の朝も泣きわめく彼を見送ってから登校した、とのこと。

先輩の家族は、全員キャラが濃かった。
仲はめちゃくちゃ良いが。

「・・・ねぇ、樹。」

それは、雨音に消されそうなほど小さい声だった。

「はい?」

「・・・さっきの夢の話だけど。」

いきなり何を言いだすんだこの人は。

思わず隣に立つ先輩を見るが、彼女は真っ直ぐ前を向いたままだ。
まだ迷っているみたいに、言い淀んでる気配がする。
フォローしたいが、先輩にどんな意図があるのかわからない以上、次の言葉を待つしかない。

「・・・あの夢さ、」

「はい。」

「正夢にしない?」


ーーーー思考が、止まった。


「・・・ちょっと。ねぇ、聞いてた?」

「へ?え、あ、はい。・・・え?」

先輩が訝しげに顔を覗き込んで、ようやく錆びついたみたいに重い思考が動きだす。

さっきの夢、とは、俺が生徒会室にて話したアレだろう。
そう言えば、あの夢の中では、雨が降っていたはずだ。

雨宿りに寄った俺の家で、先輩を抱く一歩手前までいった夢で、それを正夢にしよう、ってことはつまり・・・。

そこまで考えが至った瞬間、ブワッと顔に熱が集まった。
おそらく赤い顔の俺を見て、先輩が軽く笑う。

「ははっ、何でそこで赤くなるんだよ。」

「うぇ・・・、待って・・・。ちょっと今見ないでください・・・。」

恥ずかしすぎて片手で顔を覆って、先輩の目から逃れようとする。
彼女は大人しく引き下がり、一歩引いたところでニヤニヤしていた。
いつもの仕返し、とばかりに深追いしないのは、先輩も照れているからだろうか。

なんとか気持ちを落ち着かせて、指の隙間から瞳を覗かせる。

「・・・本当に、いいんですね?」

問いかけると、先輩は余裕にも見える顔で、挑発的に笑ってみせた。

「当然。」

「言っときますけど、もう我慢できませんよ?」

「むしろ我慢しないでくれるかな。」

先輩の手が伸びて、俺の手を握る。
冷たい手は、俺の体温を滲むように受け止めていく。

「樹に求められるのは、私だって嬉しいんだよ。」

「・・・さっきまで恥ずかしがってたじゃないですか。」

「恥ずかしいけど、それ以上に嬉しいの!」

ふんっ、と顎を上げた先輩があまりに愛しくて、また感情が溢れそうになる。
一体今日何度目だ。仕事しろ理性。

どうやら俺は、ようやく何より大切な彼女を手に入れられるらしい。
そう思っただけで、幸福に涙が出そうになった。

「じゃ、早く帰ろっか。」

「・・・そうですね。」

先輩が握ったままだった手の指を絡めて、恋人繋ぎに移行する。
きゅっ、握り返せば、どちらからともなく笑いが溢れた。

ああ、幸せだ。

幸せすぎて、怖いくらいに。

だから、彼女は絶対に手放さない。
俺の大事な、最初で最後の愛しい人。
もっと、俺を好きになって。
俺から離れられないように。

「李緒、好きです。」

気づけば、口から零れていた。
バッ、と俺の方を見た先輩は、舌打ちしそうな顔で呻く。

「・・・うぅ、私の彼氏の不意打ちが相変わらず心臓に悪い・・・。」

「何を今更。」

あえてすっとぼけて返すと、先輩は溜息をついて遠い目をしていた。

「ほら、そろそろ行きますよ。限界が近いんで。」

繋いだ手を軽く引っ張ると、先輩は大人しくついてくる。
俺はそんな彼女に、ふっ、と笑うと、土砂降りに近くなった雨の中に飛び出していった。

手のひらに、確かな温もりを感じながら。



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