わたしの愛した知らないあなた 〜You don’t know me,but I know you〜
一花は長椅子から立ち上がった。

「良いことはどんな時でもあるものね」

そう、こんな時にだって。良い面は見つけられる。

一花はゆっくりと榛瑠を見た。彼は穏やかな表情をしていた。

「例えば、今なら何ですか?」

「例えば、あなたがここに戻って来なくていいこと。ここから離れられること」

「……」

「もう、覚えていないんだから後ろ髪ひかれることもないでしょう?今度こそ、本当に自由になれるわよ」

それは榛瑠にとっては悪いことではないはずだ。

「あなたはどこにでも行けるし、なんでもできるし、何者にもなれるわ」

この屋敷を忘れたから、私を忘れてしまったから、だから、手に入る。

少年だった彼が、たぶん何より渇望していたものが手に入るのだ。

「……良いことだと思う。あなたにとって」

「そうなんだね」

榛瑠はどこか他人事のように言った。

一花は視線を外すと歩き出した。もう、無理。これ以上は一緒にいられない。もう、声がでない。

廊下の角を曲がる時、最後にちらっと彼を見た。

榛瑠は少し下を向いて微笑んでいた。

しばらく見ていなかった、優しい顔だった。

ずっと前、一花を見る時に見せていた微笑みだった。




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