わたしの愛した知らないあなた 〜You don’t know me,but I know you〜
「なんでもないです。雨に降られてしまっただけです」

静かな声だったと思う。口元は微笑んでいた。雨の音がしていた。

一花は胸が痛くなった。あの時も。そして、思い出している今も。

あの時、彼の頬を濡らしていたのは本当に雨だけだったのだろうか。

でも、それを聞けなくて、でも胸はずっと痛くて、夜遅くにそっと、温めた牛乳を榛瑠の部屋の前に置いてきたのだった。翌日、お礼を言う榛瑠はまるっきりいつも通りで、蜂蜜入れたでしょ?甘くしすぎ、だのなんだの言われた気がする。

あの時だけだ、彼が泣いてるかもって思ったのは。本当はあの時なにがあったのだろう。結局、聞けないままだった。

そして、その答えはもう聞くことができない。失われてしまった。榛瑠の子供のころの高い声をもう聞くことも思い出すこともできなくなってしまったように。

「一花さん?」

振り向いた須賀に一花は曖昧な笑顔を返した。

「思ったほど濡れずにすみましたね、よかった」

そうだね、と返答しつつ一花の心は別のところから戻りきれないでいた。

何もかもこうして無くしてしまうのだろうか。

そして、遠くない先に、榛瑠自身を今度こそ失うのだ。

……だからどうだってわけじゃないわ。彼にとってはいいことだもの。胸が痛んだからって生きていけないわけではない。

そう、だから、平気。

……榛瑠は?彼は平気かしら。失くしたままで。……多分、大丈夫よね?榛瑠だもの。きっと。

そう、きっと。いつだって、平気そうな顔をしているもの。

いつも。どんな時も。あの人は弱さを見せない。
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