紫陽花通り
不思議な彼と出会った日から数日が経つ。今日は休日だというのに、朝から雨が降っていた。
「美雨、悪いんだけど、今日中に回覧板を回してきてくれない?」
母親が仕事へ行く支度をしながら私に言った。
「え~、この雨の中? ちょっと遠いのに?」
時間がないからお願い、と母は両手を合わせて言うと、忙しなく家を出ていってしまった。
仕方がないなと朝食をキッチンへと片付けると、私も支度をして家を出た。相手が留守だったら、回覧板は玄関に置いてくればいいだけだ。
帰りは適当に散歩でもして帰ってこよう。そう思った。
しとしとと穏やかだけれど、細かくて密な雨。長靴で歩く音が、地面を転がる石のように重たげに鳴っている。
回覧板を受け取った松田さんから、「あら、誰か迎えに行くの?」と言われた。私が差していた傘の他に、もう一本持っていたからだ。
それはあの日に借りた傘だ。ぼろぼろだったはずの傘。彼が不思議な力で蘇らせた傘。
返した方がいいのだろうと思っているのに、あの日からなかなか会えずにいる。
今日も駄目だろうかと思いつつも、持ち歩くことが癖になってしまったようだ。
遠目に紫陽花通りが見え始める。
あ――。
居た!
この雨の中、傘を差さずに紫陽花を見ている姿。彼を見付けた私の足は、無意識に早足になっていった。
彼の横顔に少しずつ近付いていく。
間違いない。彼だ。
「あの……」
勇気を出して声をかける。すると、彼が少しだけ驚いたような顔でこちらを振り返った。
「……お前か」
この前会った時と同じような無表情で彼は言った。
「あの、これ、返そうと思って……」
そう言って、私はあの日に借りた傘を彼に差し出した。
「要らない」
無愛想な声音で返ってくる。
「でも……」
「俺の物ではない」
「まあ、そうかもしれないけど……」
確かにこの傘は、この紫陽花通りに捨てられていた物だ。私は少し考えると、差し出した手を引っ込めた。
「……」
「……あの、あなたの名前は? 私は美雨。小川美雨」
「ミ、ウ……?」
「美しい雨って書くの」
「美しい、雨……」
すると、彼の表情が少しだけ緩んだ。
「いい名前だな」
そう言って向けられた眼差しに、どきりと胸が高鳴った。
「俺は、アマネでいい」
瞬間、すっと彼の表情が戻ってしまう。
「アマネ……」
私は呟くように口にした。
「あなたは、何者なの?」
「俺は、お前たちの言葉で、妖精というらしい。梅雨の妖精だと」
妖精? 信じられない。
この世に妖精だなんて。でも、彼には不思議な力があったことは確かだ。
「ここで何をしてるの?」
「雨を降らせている」
「そう……」
「……」
「あの、」
「……何だ」
「どうして、私にはあなたの姿が見えるのかな」
アマネに問いかけると、彼は体ごと私に向き直って、私の瞳を見つめてきた。
黒いと思っていた彼の瞳は深いグレーで、目が離せなくなるほどに美しく、そして神秘的だった。
「お前からは、幼い子供のような清らかな心を感じる」
「え、いや、そんな……」
何となく恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「本当だ。お前の心は美しい」
アマネは無表情のままでそう言った。彼のまっすぐな視線に耐えきれず、私は視線を逸らしてしまった。
「ま、また会える?」
「雨の日ならばここに居る」
「雨の日だけ?」
「ああ」
この日から、雨が降った日には必ず、紫陽花通りでアマネと会うようになった。
「美雨、悪いんだけど、今日中に回覧板を回してきてくれない?」
母親が仕事へ行く支度をしながら私に言った。
「え~、この雨の中? ちょっと遠いのに?」
時間がないからお願い、と母は両手を合わせて言うと、忙しなく家を出ていってしまった。
仕方がないなと朝食をキッチンへと片付けると、私も支度をして家を出た。相手が留守だったら、回覧板は玄関に置いてくればいいだけだ。
帰りは適当に散歩でもして帰ってこよう。そう思った。
しとしとと穏やかだけれど、細かくて密な雨。長靴で歩く音が、地面を転がる石のように重たげに鳴っている。
回覧板を受け取った松田さんから、「あら、誰か迎えに行くの?」と言われた。私が差していた傘の他に、もう一本持っていたからだ。
それはあの日に借りた傘だ。ぼろぼろだったはずの傘。彼が不思議な力で蘇らせた傘。
返した方がいいのだろうと思っているのに、あの日からなかなか会えずにいる。
今日も駄目だろうかと思いつつも、持ち歩くことが癖になってしまったようだ。
遠目に紫陽花通りが見え始める。
あ――。
居た!
この雨の中、傘を差さずに紫陽花を見ている姿。彼を見付けた私の足は、無意識に早足になっていった。
彼の横顔に少しずつ近付いていく。
間違いない。彼だ。
「あの……」
勇気を出して声をかける。すると、彼が少しだけ驚いたような顔でこちらを振り返った。
「……お前か」
この前会った時と同じような無表情で彼は言った。
「あの、これ、返そうと思って……」
そう言って、私はあの日に借りた傘を彼に差し出した。
「要らない」
無愛想な声音で返ってくる。
「でも……」
「俺の物ではない」
「まあ、そうかもしれないけど……」
確かにこの傘は、この紫陽花通りに捨てられていた物だ。私は少し考えると、差し出した手を引っ込めた。
「……」
「……あの、あなたの名前は? 私は美雨。小川美雨」
「ミ、ウ……?」
「美しい雨って書くの」
「美しい、雨……」
すると、彼の表情が少しだけ緩んだ。
「いい名前だな」
そう言って向けられた眼差しに、どきりと胸が高鳴った。
「俺は、アマネでいい」
瞬間、すっと彼の表情が戻ってしまう。
「アマネ……」
私は呟くように口にした。
「あなたは、何者なの?」
「俺は、お前たちの言葉で、妖精というらしい。梅雨の妖精だと」
妖精? 信じられない。
この世に妖精だなんて。でも、彼には不思議な力があったことは確かだ。
「ここで何をしてるの?」
「雨を降らせている」
「そう……」
「……」
「あの、」
「……何だ」
「どうして、私にはあなたの姿が見えるのかな」
アマネに問いかけると、彼は体ごと私に向き直って、私の瞳を見つめてきた。
黒いと思っていた彼の瞳は深いグレーで、目が離せなくなるほどに美しく、そして神秘的だった。
「お前からは、幼い子供のような清らかな心を感じる」
「え、いや、そんな……」
何となく恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「本当だ。お前の心は美しい」
アマネは無表情のままでそう言った。彼のまっすぐな視線に耐えきれず、私は視線を逸らしてしまった。
「ま、また会える?」
「雨の日ならばここに居る」
「雨の日だけ?」
「ああ」
この日から、雨が降った日には必ず、紫陽花通りでアマネと会うようになった。