可愛いなんて不名誉です。~ちょっとだけど私の方が年上です!~
第一話 とぼけたつもりはなかったんですが
 コツコツと革靴の音が近づくと、美夜子(みやこ)は訳もなく机をこすってしまう。
「今いいですか、日野(ひの)さん」
 美夜子の机のすぐ横で足音は止まって、彼は少し屈みながら書類を差し出す。
 美夜子は弾けるように立ち上がって頭を下げた。
「すみません!」
「まだ何も指摘してませんが」
 彼は湖面のように波のない声で断ってから話を始めた。
「請求書ですが、この日付で受理してはいけません。内部規約に反します。先方に連絡して取りなおしてください」
「はい! すみませんでした!」
 降り注ぐ言葉はあくまで淡々と、それが美夜子をますます恐縮させる。美夜子はぺこぺこと繰り返し頭を下げてその言葉を聞いていた。
 ひととおり指摘を受けると、美夜子は恐る恐る彼を見上げる。
 さっぱりと切りそろえた短い黒髪、しなやかな眉。背は美夜子よりは頭一つ分高いが、ガタイのいいおじさんばかりの職場では多少小柄だ。威圧感のある話し方をするわけでも、強面というわけでもない。
 けれど引き締まった体躯は背筋が伸びているからか迫力があって、それが美夜子には少し怖い。独特のテンポで近づいてくる足音を聞くと、自然と体が緊張してしまう。
一葉(いちば)さん。実は今日立て込んでいて。急ぎですか?」
 うかがうように美夜子が見上げると、彼はさらっと答える。
「今日中です」
「……はい」
 そう言われてしまえば、美夜子はうなずくしかない。コツコツと去っていく彼の足音を時計の針のように感じながら、巻きにかかる。
 ひとまず目の前の仕事をトレイに移して、彼が持ってきた仕事に取り掛かる。先ほど湯を注いだ紅茶も口をつけるのは後回しで、先方の連絡先を書類の中から引っ張り出した。
「あ、ごめんなさい! 配車変わったんです。今予定表打ち出すので……!」
「落ち着け、落ち着け。こっちは焦ってねぇ」
 立ち上がってわたわたする美夜子に、カウンターの向こうでおじさんたちが苦笑する。 
 美夜子は運送会社で事務員として働いている。全国に支社を持つ大手なので初めて配属されたところは憧れが形になったようなオフィスだったが、美夜子は今の小さな事務所の方が好きだ。多少口は悪いが全員子どもの名前も知っているようなトラックのおじさんたちに囲まれて、お弁当の手配から配車まで忙しく事務仕事をする。
「みっちゃんはわざとやったわけじゃねぇのに」 
「細けぇなぁ、(りょう)は」
 呆れ顔でおじさんたちがこぼした言葉に、美夜子は慌てて首を横に振る。
「とんでもない。一葉さんのおかげで何とかなってるんです!」
 美夜子が力を入れて主張したのは、謙遜でも誇張でもない。
 美夜子は真面目に仕事をしている。でも湯気が立ちそうなほど熱を入れるせいで、基本的なことが見えなくなる。そのまま大失敗に落ちそうな美夜子のミスを、かたっぱしからブロックしてくれるのがこの事務所の経理担当、一葉涼だ。
 院卒で入社した美夜子よりずっと先輩ではあるが、年は美夜子より二つ下。だからますますその隙の無さがうらやましくて……ちょっと苦手だった。
 美夜子は入社したての頃、涼にとてもみっともないところを見られた。同僚に合コンに誘われて、けれど参加する勇気も時間もなくて、深夜のオフィスで泣いていた。
 ところが合コンに参加したはずの涼がなぜかオフィスに来て、美夜子に言った。合コン、楽しくなかったですと。
 皮肉なのか、慰めなのか。美夜子には聞き返せなかった。その後すぐに支社に転勤した涼とは、それから二年間顔を合わせることがなかったから、時期も逃してしまった。この事務所で再会しても無反応で、オフィスで泣いていた情けない新入社員なんて忘れてしまったかなとも苦笑いした。
「みっちゃん、今日は早く終わるか?」
「家まで送ってやろっか?」
「いえ、大丈夫です!」
 美夜子は考え事から目覚めて、明るく断る。
「最近忙しいんですよ!」
 おお?と顔を見合わせてにやけるおじさんたちに、美夜子はその意味はあんまりわかっていないながらも訳知り顔でうなずく。
「さ、やるぞー!」
 再び湯気が立ちそうな気合を入れてパソコンに向かう美夜子を、涼は後ろの席から射抜くように見ていた。
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