この空を羽ばたく鳥のように。
年が明けた 慶応四年(1868年)一月三日。
大坂と京で睨み合っていた旧幕府軍と討幕軍がついに戦端を切った。
『鳥羽•伏見の戦い』である。
慶応三年(1867年)十月に、幕府に委ねられていた政権を朝廷に返還するという大政奉還があり、
約二百六十年続いた徳川幕府もついに幕を閉じた。
そして十二月の王政復古の大号令で、薩長は新政府樹立を宣言したのである。
弾き出されたように京を追われた慶喜公と容保さまは、大坂城に居を移して巻き返しをはかるが、
度重なる薩摩の挑発に業を煮やした幕臣達を抑えきれず、とうとう鳥羽街道と伏見街道に分かれ約一万五千の旧幕臣の兵を京に進軍させた。
名目は朝廷に薩摩の追放を求める上奏として、「討薩の表」を掲げての行軍だったが、武力衝突は目に見えていた。
一月三日の申の下刻(17時)頃、旧幕府軍は鳥羽街道上の関門を守備する薩摩兵とのあいだで、押し問答のすえ戦いが勃発。
次いで伏見街道でも戦が始まる。
兵力では敵の三倍を誇っていた旧幕府軍だったが、薩長軍の圧倒的な火器の威力に苦戦を強いられた。
戦局の悪化から、味方の軍からも淀藩や津藩が寝返るなど、旧幕府軍にとって不測の事態が次々と起こり、幕臣達は大坂城まで撤退を余儀なくされる。
追い討ちをかけるように薩長軍は『錦の御旗』なるものを掲げ、これに刃向かう者は朝廷に仇をなす逆賊だと吹聴した。
これにより進退極まった慶喜公は、容保さま以下少数の家臣を引き連れ、夜陰に紛れて開陽丸で江戸へ東帰されてしまう。
よもやの大将の戦線離脱に、残された幕臣達も失意に暮れながら敗退。
それぞれ陸路海路を使い江戸を目指した。
江戸へ戻った慶喜公は恭順を示し、容保さまを登城差し止めとした。
抗戦を訴える老中達も次々と罷免させ、城からの退去を命じる。
朝廷からも幕府からも見捨てられた形となった容保さまと家臣達は、落胆ながら江戸を引き払い国許会津へ戻ったのだった。
※上奏……大臣・官庁などが天皇に意見を申し述べること。
※余儀ない……それ以外に取るべき方法がないさま。しかたない。
※東帰……ここでは江戸に帰る意。
※恭順……つつしんで命令などに従うこと。
※罷免……公職をやめさせること。
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