この空を羽ばたく鳥のように。

* 零 *






 慶応四年八月二十一日(1868年10月6日)。

 この日の払暁(ふつぎょう)、白河から二本松を攻め奥州街道を制圧したおよそ三千もの西軍の部隊が、母成峠(ぼなりとうげ)を急襲した。

 参謀である薩摩の伊地知(いじち)正治(まさはる)•土佐の板垣退助(いたがきたいすけ)が率いた西軍は、郡山(こおりやま)から猪苗代に通じる中山峠を攻めると公言しながら、そちらには別動隊を差し向け、本隊に二千もの兵力を投入し、本宮から猪苗代に通じる石筵口(いしむしろぐち)、母成峠を攻めた。

 母成峠は天然の要害といわれるほど峻険(しゅんけん)な峠であったため、ここに西軍の本隊が攻めることはあるまいと会津軍の守備は手薄だった。


 守備に当たっていたのは、猪苗代隊長 田中(たなか)源之進(げんのしん)の隊と大鳥圭介(おおとりけいすけ)率いる伝習隊(旧幕兵)、二本松や仙台•新撰組の残兵や農兵およそ八百で、
 石筵本道口から萩岡に第一台場を、中軍山に第二台場、母成峠に第三台場、それと勝岩に陣を設け防御態勢をとっていた。


 その日は濃霧が辺りを立ちこめており、視界が不十分であったという。

 その中を西軍は隊を三方向に分け、中央隊は本道を、右翼隊は伊達道と称する旧道を、左翼隊は地元の猟師に案内させて山葵沢(わさびざわ)という道すらない難所を霧に紛れて進んだ。

 大鳥圭介が母成峠の守備の重要性を考慮し、かねてより会津軍事局に増援の要請をしていたにもかかわらず、広い国境に兵を分散していた会津藩に送れる兵などおらず、同盟軍は少ない武備と兵で迎え撃たねばならなかった。










 ※払暁(ふつぎょう)……夜明け。明け方。あかつき。

 ※要害(ようがい)……地勢が険しく、敵の攻撃を防ぐのに好都合なこと。また、その場所。

 ※峻険(しゅんけん)……山などが高くけわしいこと。また、高くけわしい所。


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