この空を羽ばたく鳥のように。
まずは喜代美の部屋に向かう。
整然とされた部屋に入ると、あらかじめ用意してあった風呂敷包みを掴んだ。
これは喜代美の着替え。新しい襦袢や下帯など、衣類一式を入れてある。
(あ、そうだ。虎鉄……)
そういえば、虎鉄のことも任されていたんだったと思い出して、風呂敷包みを掴むと中庭に面する障子を開けて縁側に出た。
「虎鉄―――!」
空からは止む気配のない小糠雨が降り続いている。
虎鉄は姿を現さない。
きっとこの喧騒に怯えてどこかに隠れてしまったんだろう。
なおも探す気になれなくて、中庭を眺める。
いつもと変わらない殺風景な中庭。
木刀や薙刀を振れるようにとあえて何も植えず、中央にある痩せた桜の木だけがぽつりと佇んでいる。
けれどここは、喜代美との思い出がたくさん詰まった場所。
何度も、何度も。ここから見える季節の移り変わりをふたりで眺めた。
(またここで……喜代美と一緒に、同じ風景を見られるだろうか)
足元の濡れ縁を見つめる。
喜代美はいつもこの縁側に腰掛け、ときに空を見上げ、また生きとし生けるものに優しいまなざしを向けていた。
(喜代美……)
目を閉じると、彼の慈愛に満ちた笑顔が思い浮かぶ。
すべてを包み込んでくれるかのような、あたたかな笑顔。
その面影を求めるように、目を開けて向かいにある障子が閉じられた自分の部屋を見る。
(喜代美はここから、どんなふうに私のことを見ていたのかな……)
ふと訊ねたい思いに駆られて、会いたい気持ちが込み上げて、じわりと涙が滲んでくる。
「……いけない。感傷に浸っている場合じゃないわ。しっかりしなきゃ」
ぐいっと腕で両目を拭う。顔をあげるとそのまま濡れ縁を渡り、自分の部屋へ向かった。
部屋に入ると、文机の上に置いていた冊子と櫛を前に正座する。
冊子は父上より「大事あらば必ず持ち出すよう」と言い渡されていた津川家の系譜。
以前 喜代美がこれを読んで祖先の偉大さを知り、自身もかくありたいと望んでいたものだ。
その決意を込めて出陣前に喜代美が詠んだ歌の短冊も、冊子の中に挟んであった。
「かねてより 親の教えの秋(とき)はきて、今日の門出ぞ 我はうれしき」
冊子の中から取り出した短冊を声に出して詠みあげ、喜代美の決意と自分の決意を重ねる。
それを再び丁寧に冊子に挟むと、今度は櫛に目を向けた。
今や形見となってしまった―――八郎さまからお預かりしていた黒漆の櫛。
(八郎さま……)
そっと櫛を手に取る。
(どうかあなたの家族を……喜代美をお守りください)
櫛を両手で包んで祈ると、冊子とともに風呂敷に包み、大切に懐へおさめた。
それからすばやく袴を穿つと足下に脚絆を巻きつける。
白木綿のたすきをきりりと締め直し、額にも同じく白木綿の鉢巻きを結ぶ。
(もう ここには戻れないだろうか)
ふいにそんな思いがわいて、まわりを見渡す。
私が生まれ育った屋敷。
家族と過ごし、喜代美とともに過ごした、幸せと笑顔のあふれる場所。
そう思ったら、感謝の念がわいてきて、無言で頭を下げた。
部屋を出ると納戸へ行き、使われていない脇差しを取り出す。
それを腰に差し込むと、玄関へ向かった。
玄関手前の長押(なげし)に掛けてあった薙刀をためらいもなく手に取る。
いつもの練習用の木刀とは違い、きらりと光る刃を持った、殺傷力のある本物の薙刀。
先端の鋼の刃のズシリと重い手応えに、身も心も引き締まる。
「どうか、私とともに戦ってくださいませね」
手にした薙刀に優しく語りかけると、草鞋をきつく縛り外に出た。
※襦袢(じゅばん)……和服用の肌着。
※下帯(したおび)……ふんどし。
※小糠雨(こぬかあめ)……雨滴のきわめて細かい雨。
※生きとし生けるもの……この世に生きているものすべて。あらゆる生き物。
※穿つ(うがつ)……袴・履物などを身につける。
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