この空を羽ばたく鳥のように。



それでもなんとか集められた村の男子達で「小松獅子隊」が急遽 作られた。
独身の若者だけで組織されたこの隊は、最年少では十一歳の少年もいたという。



山川隊が先頭に彼岸獅子を立てて入城する策に出たのは、洋式行軍を取り入れて太鼓や笛などで演奏しながら進軍していた西軍に味方の援軍だと思わせ、油断させるため。

そしてもうひとつ、大きな理由があった。

籠城する会津兵には、彼岸獅子のお囃子が分かるはず。味方の到来を知り、速やかに城門を開けて迎え入れてくれるに違いない。

小松獅子隊を先頭に立たせることは、敵の目を欺(あざむ)き、なおかつ味方に援軍が来たと報せる合図になるのだ。



この読みは見事に当たり、敵の軍隊が呆気にとられているあいだに、山川隊は西追手門からまんまと入城することができた。
これに城内の者達は湧き上がり、皆が拍手喝采した。



城内の兵力も整い、心機一転、軍事局では改めて梶原平馬さまを政務責任者に、山川大蔵さまを軍事総督に任命し、他にも若手家老を大抜擢した。
すでに籠城当日の二十三日に、甲賀町•六日町郭門が破られた責任を取って、藩医 土屋一庵宅で家老の神保内蔵之助さまと田中土佐さまが自害していたこともあり、ここに至り君公を取り巻く重臣が新旧一転されて体制に臨んだのである。


そして同時に、筆頭家老として名のあった西郷頼母さまの城外追放が決まった。


西郷頼母さまは京都守護職拝命の折から主君である容保さまとの意見の食い違いで、しばしば蟄居を命じられていた。

戦争が始まり白河口総督を命じられるも、同盟軍との連携がうまくゆかず大敗北。その後も武力抵抗の意識が高い藩内で恭順を訴え、あまつさえ国境が破られると主君である容保さまに「責任をとって切腹」を迫ったとして、他の重臣の大きな反発を招いた。

一説では、城内で「西郷を斬るべし」との不穏な空気が流れたため、その身を気遣った容保さまが、使いに出すことで城外に逃がしたとも言われる。


家族を集団自決という形で失った西郷さまは、遺された長子の吉十郎さまを伴いお城を出た。

そして高久で城外戦を取り仕切る家老の萱野権兵衛さまへ伝令を伝えたあと姿を消した。

余談ではあるけれど、刺客が西郷さまを追ったそうだが、見失ったそうだ。

西郷さまはその後、米沢を経由して仙台に向かい、榎本軍に身を投じ、箱館戦争を戦った。










※蟄居(ちっきょ)…… 江戸時代、武士に科した刑罰の一。自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの。終身のものは永蟄居という。


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