この空を羽ばたく鳥のように。




「土津(はにつ)さま」といえば、会津で知らない者はいない。

それは畏れ多くも、会津松平家の藩祖•保科正之公のことだからだ。




保科正之公はれっきとした将軍家の血をひいておられる。御尊父は二代将軍•秀忠公。

しかし正室の御子ではなく庶子だったため、正之公は将軍家とは関わらずに成長された。

やがて高遠三万石の藩主となった正之公を、山形藩二十万石、そして会津藩二十三万石の藩主に大抜擢したのは、正之公の異母兄である三代将軍•家光公。

家光公は、将軍の胤(たね)でありながら、それをまったく表に出さずいつも慎み深くある正之公にいたく感心なされた。
そして小藩の藩主に押し込めておくにはもったいない人物だとして、東北の大名を抑制するため重要な位置にある会津領の藩主にした。まだ徳川政権が盤石でなく、いつ各国大名の反乱が起こりうるかもしれない時代、これは身内だからこその扱いだった。

その恩恵に感謝した正之公は、報恩のため子々孫々に至るまで将軍家に忠義をもって仕えよとの家訓を遺した。



『一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以(もっ)て自ら処するべからず。
若(も)し二心を懐(いだ)かば、則(すなわ)ち我が子孫に非(あら)ず、面々決して従うべからず』



大君とは、将軍徳川家のこと。
つまり「徳川家に忠勤と忠義を尽くせ、他の藩を見て判断するな、もし迷いが出て徳川家に逆らう藩主が出たら、それは私の子孫ではない。家臣の面々は決してそれに従ってはならない」



この第一条からはじまる【家訓(かきん)十五箇条】は、徳川政権における会津藩の立場、その在り方を示したもの。

藩祖 保科正之公は、それほどまでに徳川家を大切にした。自分の家(藩)よりも本家である徳川家を。
そして会津藩の歴代藩主と家臣達も、その家訓を大切にした。

その藩是(はんぜ)とも言える家訓のために、今 会津藩が滅亡の危機に瀕しているとは……正之公ならどう思われるだろうか。



その正之公は御年五十歳の頃から神道を熱心に学ばれた。そして六十一歳の時に神道の最高の位である四重奥秘を授けられるに至った。と同時に土津霊神という神霊号を奉っている。

「土津」の「土」は、物事の始めであり終わりであって、天地の根元、宇宙の理(ことわり)を指しているそうだ。そこに「会津」の「津」をつけて「土津」と名付けられた。

六十二歳で亡くなられた後は猪苗代見袮山にて神道による葬儀が執り行われた。正之公の眠る地に土津神社が建立され、公は会津の行く末を見守る存在となられた。

会津の民は、正之公を「土津さま」「土津神君」とお呼びして、今でも会津の神様として崇めている。

しかし西軍の侵攻を防ぎきることが出来ず、御神体はお城へ移され、土津神社は焼かれてしまった。










※庶子(しょし)……本妻以外の女性から生まれた子。


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