この空を羽ばたく鳥のように。
「さよりさん、体調がすぐれないの?」
夜の破傷風患者の看病を勤めていたとき、同じく看病に従事していた たつ子さまが、金の間から私を連れ出すなり、そう訊ねてきた。
「いえ、何の心配もございません」
また言われた。慌ててそう返すも、笑顔を見せる余裕はなかった。もちろんたつ子さまにも通じない。
じっと私を見つめて、
「顔色も悪いわ。万が一倒れたらどうなさるの。そんな身体で働いて、何か過失を起こしても困りものだわ。
もういいから、今夜は戻っておやすみなさい」
心配してくださっているのだろう、有無を言わせぬ口調だった。
うなだれるしかなかった。
結局 今日一日中、塞いだ気持ちのまま仕事をしていた。
挽回するために なお働こうという気力も起こらず、深くお辞儀すると素直に従い部屋を退出した。
――――私は本当に役立たずだ。こんなんじゃ、誰にも頼られるはずがない。
広縁から外に出ると、新月に近いのか空も辺りも暗い。
真っ暗な闇の中を手燭の灯りを頼りに長局へ戻る。
こんなとき、源太がいてくれたらと思う。
籠城戦からこれまで、気持ちが沈んだり心細くなる時はいつも源太がそばで励ましてくれた。
私はずっと支えられていた。
けれどその安心感は、もう与えられることはないのだ。
しっかりしないといけないのに。
最近は身体もだるいし、頭の中もぼんやりして考えがまとまらない。
(やはり疲れてるのかもしれない。今夜はお言葉どおり、休ませていただこう)
部屋では家族も同室の方々もとうにお休みになっているはず。物音をたてて起こさないように、細心の注意を払って長局の中庭の木戸を開け、縁側から部屋へ近づく。
穴が開いたつぎのある障子を静かにずらし、中の様子をうかがって、ドキッとした。
皆が休んでいるとばかり思っていた部屋の中で、黒い塊が薄明かりにぼんやり浮かび上がっていた。
息を呑んで手燭の灯りをかざす。
部屋の中を照らしてさらに驚いた。
黒い塊だと思ったのは、お祖母さまだった。
床から起き上がり、背筋をしゃんとさせて鎮座されている。最近のお祖母さまは、おひとりで起き上がることさえできなかったというのに。
「お、お祖母さま。おひとりで起き上がれるようになられたのですね」
お祖母さまに近づき、小声で語りかける。宙の一点を見つめていたお祖母さまが私の声に反応してわずかに微笑んだ。
「……ええ。なんだか身体中の痛みが消えて、不思議と体調が良いの。横になっているのがもったいなくて」
「それはようございました。ですが薄着のままではお身体を冷やしてしまいますよ」
優しく囁きながら、床に置かれていた綿入れをお祖母さまの肩に掛けてさしあげる。
世話をやく私を見つめて、お祖母さまがおっしゃった。
「……まあまあ。あなた、御髪が乱れていますよ」
「え……さようでございますか?」
あわてて頭に手をやる。自分ではさほどのこともないと思っていたが、たしかに鬢からいく筋もの髪がこぼれていた。
「前においでなさい。直してあげましょう」
そうおっしゃって、お祖母さまは懐から拓殖の櫛を取り出した。思わず胸の前で両手を振る。
「いいえ、かまわずにおいてください。あとで自分で直しますから」
「いいから。おいでなさい」
「ですが……」
ためらったが、ここで騒いで休んでいるまわりの方がたを起こす訳にもいかない。
「では……お願いいたします」
しぶしぶお祖母さまの前に背を向けた形で正座する。
お祖母さまは膝立ちになられると、ゆっくりと私の髪に櫛を通した。
本当はお祖母さまに髪を触られるのが恥ずかしかった。
だって、私の頭には虱がわいていたから。
湯浴みや髪を洗う暇も場所もなく、加えて水不足である城内では、不衛生のため虱が大発生した。
誰も彼も虱にたかられ、ひどい痒みや皮膚病に悩ませられた。いつもいつも頭が痒くて仕方なかった。
きっとお祖母さまの拓殖の櫛には、梳かした髪と一緒に虱もついている。
それを見られたら、お祖母さまはどう思われるだろう?
お祖母さまの大切な櫛を汚してしまい、申し訳ない気持ちでうなだれる私にお祖母さまは見越したように優しくおっしゃった。
「心配することはありません。目が弱くなったわたくしには分からないわ」
(お祖母さま……!お気づきで……?)
ハッとして後ろのお祖母さまをうかがう。
お祖母さまからは変わらない穏やかな気配が漂う。
「ですが、武家の女子は、いついかなる時も身だしなみを怠ってはなりませぬ。
苦しい境遇にあれども、たとえ命が消える間際においても、けして見苦しい姿をさらしてはなりませんよ」
柔らかな中に厳しさを含めた物言いで諭す言葉が、私の胸に泌みた。
「はい……肝に命じます」
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