この空を羽ばたく鳥のように。
心の中は乱れていた。
まさか父上が、あんなことをおっしゃるなんて。
父上はもうあきらめてしまったの?
口には出さないけど、母上やみどり姉さまも?
えつ子さまも?ーーーーそんな。
私は喜代美をあきらめたくない。
どうしてもあきらめきれない。
信じたいの。信じていたいの。
『ーーー喜代美さまを信じて待ちましょう!』
源太の言葉が、思いを込めた表情が、
動揺する心によみがえって力を与えてくれる。
胸に拳を抱きしめる。
信じ続けることが力になる。
(……ああ、また。源太に助けてもらった)
源太と九八が井戸へ向かっているあいだに準備を整える。
風呂敷包みからすべての衣服を出してみた。戦いで身軽に動けるようにと持ってきた半着が二枚、たっつけ袴が二腰。襦袢と下帯もちゃんと入れてある。
半着のうち、鉄色は源太に、紺鼠は九八に用意する。
たっつけ袴は、源太はいいけど九八は穿くだろうか。
戦の最中だからなるべく色の落ち着いた物を、と選んだのが幸いした。喜代美よりだいぶ年長のふたりでも、着て違和感はないはずだ。
それから借りている女中部屋の箪笥の中を拝見させてもらうと、剃刀や櫛、女性用の鬢付け油が塗りつけてある貝殻、鋏と元結が出てきた。これらを拝借させてもらおう。これだけあれば身支度に必要なものは十分だ。
総攻撃の噂で城から出て行った家族もいて、私達がいる部屋と隣の部屋はひと家族しかいなかったので、隣室のご家族からも協力してもらい、部屋を貸してもらうことにした。
それはみどり姉さまの提案だった。
みどり姉さまは真面目な顔で私を呼ぶとおっしゃった。
「さより。こちらの部屋で私が九八の支度を手伝うから、お前はとなりの部屋で源太の介添えをしておやりなさい。いい?できるわね」
「え……っ、みどり姉さま⁉︎」
突然の言いつけに戸惑う。えつ子さまと三人で流れ作業でふたりの支度をしようと考えていたのに。
気がつくとえつ子さまのお姿はなかった。みどり姉さまがお願いして、草鞋を調達しに行ってもらったという。
「お前まだ源太にきちんとお礼を申していないでしょう」
「ですが……、部屋でふたりきりになど……」
となりの部屋はこちらの六畳より狭く、四畳半しかない。
そんな部屋で襖を閉めて源太とふたりきりなんて。
「源太がここから離れてしまって、積もる話もあるでしょう。今まで世話になったのだから、お礼の意味も込めて心を尽くしてあげなさい」
「みどり姉さま……」
みどり姉さまも気づいておられるのだろうかーーー源太の気持ちに。
だから家族のために働いてくれた源太に少しでも報いようと、私を遣わせるつもりなのか。
でも、みどり姉さまは知らない。私と源太が一度きりとはいえ、お互いを求めて抱き合ったことを。
いくら襖を隔てた先に皆がいるとしても、誰も見ていない狭い部屋でふたりきりになって、またあの時と同じ衝動に駆られたらーーー。
(私……大丈夫だろうか)
しばらくして源太と九八が長局に戻ってきた。
汚れを洗い落とし、すっかり精悍な顔つきを現した源太を見ると心がざわめく。
(やだ……なんでこんなに胸が騒ぐんだろう……)
となりの四畳半の部屋に控え、胸の前でぎゅっと手を握る。
(私、ちゃんと源太の介添えできるかな……)
六畳の部屋にあがったふたりは、みどり姉さまから身支度を整えるためにそれぞれ介添え人をつける説明を受けて驚きの声をあげた。
「いえ!お着物さえお貸しいただければ十分です!介添えは必要ございませぬ、九八とふたりでやりますから!」
源太の困惑したような声が聞こえる。けれどみどり姉さまも引かなかった。
「それでは私どもの気持ちがおさまりません。もう父上の了承は受けております。今まで世話になったんだもの、手伝わせてちょうだい」
「ですが……!」
「言い争っている暇はありません。お前は集合時刻に主人を遅刻させて恥をかかせる気ですか」
「………!」
みどり姉さまは毅然とした態度で源太を黙らせるとにっこり微笑んだ。
「ぐずぐずしていると間に合いませんよ。九八はこのままで。源太はとなりの部屋へお行きなさい」
有無を言わせずの強引な指示にしぶしぶ折れた源太が四畳半の部屋に足を踏み入れる。
恥ずかしくて顔を隠すように両手をつかえて頭を下げた。
「未熟ながら、介添えを勤めさせていただきます」
「さよりお嬢さま……!」
見上げると、源太の顔は驚きで真っ赤だった。
※鉄色(てついろ/くろがねいろ)……鉄の焼肌の色のような青みが暗くにぶい青緑色のこと。
※紺鼠(こんねず)……わずかに青色がかった暗い鼠色のこと。
どちらも『伝統色のいろは』より抜粋。
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