この空を羽ばたく鳥のように。



翳りのある表情のまま、小野さまは静かに告げた。



「こちらでも、昨日暁に石井音次郎が亡くなりました」

「えっ……石井さまが⁉︎ 」

「はい」



小野さまは悲しみを湛えたまなざしで当時の様子を語る。


時を戻すこと、十九日の夜。
日暮れから番兵に出張した石井音次郎さまは、小用を済ませて持ち場の胸壁に戻ろうとした際、運悪く塀の狭間を通過した小銃弾に命中してしまった。

同じく番兵だった鈴木三蔵さまが驚いて注進に行き、石井さまは屯所へ運ばれたが、弾は左の二の腕より横腹を撃ち抜き右の肋骨(あばらぼね)で止まっており、その苦しみは大方(おおかた)ならずだったという。

小野さまが介抱したが、弾は内臓を破ったと見え、石井さまは血反吐(ちへど)を吐いて次第に弱っていった。夜半になって小野さまは右の脇腹を切って弾を取り出す処置を施したが、手当ての甲斐なく石井さまは翌二十日の朝に亡くなられた。

朝比奈さまはこの事を日向さまへ届け、隊員達は悲しみに暮れながら西出丸の土手下に石井さまのご遺体を埋葬した。



「どんなに手を尽くしても……目の前の命が失われてゆくつらさは例えようもありません」



小野さまは寂しそうに笑った。

私は、鐘撞堂を見上げながら「会津の鐘楼守りはすごい」と感心していた石井さまのお姿を思い起こしていた。

もう少し早く降伏の決断がおこなわれていたら。
石井さまが亡くなることはなかっただろうに。
そう考えると、彼の死が悔やまれた。

小野さまだって、手を尽くして介抱しても報われない虚しさに心を痛めている。
かける言葉が出てこなくてしばらく沈黙していると、切り替えるように小野さまがおっしゃった。



「脇腹の傷ですが……石井の傷を(かんが)みると、さよりさんのは内臓の損傷が少ないのかもしれません。
内臓が破られた石井は半日ももたずに亡くなりました。
損傷がひどければ、今ごろこんなふうに言葉を交わすこともできないはずです」


「小野さま……それでは……?」


「膿毒症などを引き起こさなければ助かる見込みは多いにあります。ですから決して、生きることをあきらめぬように」



小野さまは医師として、目の前の患者の命が失われてゆくのが何よりつらいはず。
私の死でさらにつらい思いをさせたくない。



「はい。肝に命じます」



声に力を込めて返事すると、小野さまも微笑んだ。
そうして母上達のほうへ顔を向けると、あらためて姿勢を正した。



「お城の引き渡しは、明日の午後とうかがいました。
我々は武装を解き、後日謹慎所へ向かうことになります。
ですからこれが最後のご挨拶となりましょう。
一同みな支度に追われ慌ただしく、私が隊を代表してまいりました。皆さまがた、どうか息災でいてください」


「小野さまには娘が大変お世話になりました。お身体にお気をつけて。道中つつがなきようお祈りしております。
皆さまによろしくお伝えくださいませ」



母上が応えて頭を下げると、みどり姉さまとえつ子さまもそれにならう。小野さまも頭を下げて立ち上がると大書院を去っていった。



「源太と九八が戻ったらよろしく伝えてください」



ーーーそう、言い残して。










《凌霜隊のその後》

凌霜隊はその後9月23日に大小以外の武器を供出し、城内にいた兵士達とともに猪苗代謹慎所へ向かう。
そこで19日間を過ごしたのち、10月12日に諸藩脱走隊は江戸へ移送され、24日に江戸•千住にて凌霜隊は郡上藩に引き渡された。
請け取りに来た藩士の態度はよそよそしいものだった。

10月26日に国許の郡上へ向かうため、品川沖から護送船で出帆(しゅっぱん)、途中船の難破に遭いながらも11月18日郡上に到着。藩は帰還した凌霜隊を罪人として扱い、すぐに赤谷村の揚屋(あがりや)(牢獄)に入れた。

揚屋での幽閉生活は厳しいものだった。赤谷揚屋は湿地に造られていたため、湿気が多く風通しと日当たりが悪かった。帰りを待つ家族との連絡はいっさい禁じられ、狭い獄舎は日陰ゆえに湿気と寒さが(はなは)だしく、食事も乏しかったため病気になる者が多く出た。速水小三郎は8回にも渡り場所替えを嘆願したが聞き入れてもらえなかった。
この劣悪な暮らしは半年ほど続く。しかし明治2年5月23日、凌霜隊は赤谷揚屋から長敬寺へ移され、生活はだいぶ良くなった。

藩の上層部は凌霜隊員の死刑を考えていたらしい。しかし新政府からの寛典(寛大な処分)もあり行えずにいた。
謹慎場所の移動についても藩の裁量ではなく、凌霜隊に対する藩の処遇を(あわれ)んだ慈恩禅寺の住職が領内の寺院の僧侶に声をかけて周旋した結果、実現したものだった。

この藩上層部の冷たい仕打ちを、「君志に報ゆるため」と信じて藩命より参戦した凌霜隊員達は痛烈に非難した。
その不信感と憤りから再三過激な企てを起こそうとしたがその度に副隊長であった坂田林左衛門がこう(さと)して止めていたらしい。
「諸君らが戦に臨まれたのは君公の命と信じたからだろう。然れば今、蟄居を命じたのも君公の命と心得て慎んで居るべきである。総てを一に帰して怨まず憤らず己の分を守ることこそ真の武士である」。

そして会津を発して1年後の、明治2年9月23日。
全隊員が禁錮解除となり、自宅での謹慎が許された。
翌明治3年2月19日、明治政府から正式な赦免が通達されようやく謹慎を解かれて放免となった。
しかし赦免された後も待遇されることなく藩内からの冷たい目に晒された隊員達は散り散りに郡上を去っていった。

凌霜隊隊長•朝比奈茂吉(戊辰当時17歳)は、廃藩置県後、彦根に移り、父•藤兵衛の生家である椋原家の養子となり名を「椋原義彦」と改めた。その後、両親と朝比奈家を継いだ弟と妹も呼び寄せ養っている。頼まれたら何でもやる親分肌の人柄だったが、朝から酒を飲み、酒に酔うと凌霜隊を切り捨てた藩を痛烈に批判していたという。
明治22年のとき犬上郡青波村の村長となる(他にも戸長•町長•県会議員を歴任した)が、在任中の27年に脳溢血のため43歳で死去。墓は滋賀県彦根市の蓮華寺にある。

副隊長•坂田林左衛門(52歳)は赦免後、長女の婚家に隠居して「帰一」と号した。新潟県豊栄市の照善寺に墓がある。

同じく副隊長兼参謀•速水小三郎(47歳)は、明治4年9月に「速水正雄」と改名。郡上を離れ、尾州春日井郡で教授をし、明治5年岐阜市伊奈波神社の祠官(しかん)を務めたあと、岐阜県庁の訴擬律掛となる。明治10年10月一家で東京へ転住。
明治13年宮内省御系譜掛雇いとなる。明治17年宮内省図書寮勤務。明治28年長男を勘当、それに反対した妻を離縁。明治29年75歳で死去。墓は東京都港区南青山にある玉窓寺。

.
< 495 / 566 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop