この空を羽ばたく鳥のように。
第三章 斗南へ
* 新潟へ *
戊辰の年が怒涛のように過ぎ去り、明けた明治二年。
ささやかな正月を祝うのもつかの間、謹慎している藩士達は各預り所へ移動するよう新政府から通達があった。
塩川•濱崎村で謹慎していた城外戦闘組の藩士千七百四十四人は越後高田藩預りに。
猪苗代で謹慎していた籠城組の藩士三千二百五十四人は東京へ。
猪苗代謹慎組の藩士は当初、信州松代藩預りとされていたが、松代藩が財政上の理由でこれを断ったため、東京にて分散収容されることとなった。
御老公(容保)さまは十月に東京へ護送されたあと、因幡藩池田家の江戸屋敷へ、藩主喜徳さまは久留米藩有馬家の江戸屋敷へ、付き添った重臣とともに永預けとされている。
領内の謹慎所ではわりと自由に動けていたようだけれど、他藩預りとなればそうはいかないだろう。
これから藩士達が強いられる罪人生活を想像すると、不安が募った。
正月五日、塩川•濱崎村で謹慎していた城外戦闘組の越後高田藩への出立が始まった。
出発時刻は八ツ半(午後3時)。雪の降りしきるなか、約百人ほどの越前藩兵に前後を固められての移送だった。
報せを受けて私とみどり姉さまと九八の三人は、寒さに身を縮めながら藁ぐつを履いて街道まで出向き、積もった雪を踏みしめ越後へ向かう藩士達を見送った。
………あれから、父上と源太を失い、悲しみに暮れている私達家族に吉報が届いた。
父上の弟、主水叔父さまが生きておられたのだ。
城外戦闘軍の器械方として働いていた主水叔父さまが
私達の居場所を聞いて塩川村謹慎所から便りを送ってくださった。叔父さまの無事を知ることができた私達家族は涙を流して喜んだ。
当主を失った津川家の女達にとって、それは一筋の光明だった。
しかし喜んだのもわずかなあいだ。叔父さまも他の藩士ともども越後高田藩へ向かうことになった。
それで私達は主水叔父さまと、高橋誠八さまや金吾さまなど、知人を含めた藩士達をお見送りするためにここまで出向いていた。
嬉しいことに、会いたかった人に会うことはできた。しかし移動する藩士達を眺めて不安を覚えた。普通に歩ける者はいいが、中には杖をつき足を引きずる者もいたり、自分では歩くことができず背負われたり板輿に乗せられ行く者もいて、雪深い越後高田藩への難儀な移送を思わせた。
幸い、叔父さまも金吾さまもご自身の力で歩くことができたが、その姿はすっかり面変わりしていて別人のようだった。それは戦場を駆けめぐり、戦い続けなければならなかった兵士の苛酷さを物語っていた。
彼らから見たら私達も同じように面変わりし、みすぼらしく映っているのかもしれない。
「高橋金吾さまぁ!どうか道中ご無事で!」
金吾さまに恩義を感じていた九八が、通り過ぎたその背中に思いあまって声をかけた。
すぐさま移送兼監視役の越前藩兵にジロリと睨まれたが、金吾さまは振り向き笑って返してくださった。
「無事に会えてよかったな」と、その笑顔が語りかけていた。
(どうか、ご無事で――――)
心の中でつぶやきながら深くお辞儀したあと、その背中が見えなくなるまで私達は立ち尽くした。