この空を羽ばたく鳥のように。




斗南藩領への移住は強制ではなかった。
石高二十三万石から三万石への減封である。
とても全藩士と家族を養えるものではない。

しかし永らく武士として過ごしてきた彼らにとって、侍以外の者になることに抵抗もあり、尚且(なおか)つ松平家再興は悲願でもあったため、多くの藩士が斗南への移住を決断した。

新しく立藩するに当たって、重臣達は会津戦争時に農兵として加った者や畳職人•塗師なども募り、藩士に仕立てた。その理由としては、新領地での授産政策のためとも、人員を水増しして政府からの扶持米金を増やそうと考えたためとも言われる。

それ以外は藩籍を離れ、会津の地に留まり帰農する者、北海道や東京など別の土地に移り住む者などに分かれた。

旧会津藩士達は、こうして次第に散りぢりになってゆく。





会津表から斗南までの移動手段としては海路と陸路が取られた。

海路は江戸の品川から出る船や新潟港から出る船に乗り、斗南領である野辺地(のへじ)安渡(あんど)(現在のむつ市大湊)の港を目指す。
船酔いに悩まされての航海だが、だいたい新潟からは三日、品川からは五日で港へ着くという比較的短い日数で行けた。

しかし陸路では困難を極めた。移転命令が出たのが晩秋だったため、初冬にかけて厳寒の奥羽路を、日に三•四回も草鞋(わらじ)を取り替えながら二週間から三週間もの日数をかけて歩き、足の裏は豆だらけになった。
旅の宿代はのちに斗南藩が一括して支払うこととし、藩が発行した一枚十二銭五厘の宿札を多数与えられたが、大凶作で米価が高騰したため、確実な保証のない落人の宿札に難色を示す旅籠屋(はたごや)が多かった。盛岡では(かゆ)(すす)ることを条件にようやく泊めてもらった一団もあったという。

彼らは空腹を抱え、時には鰹節をなめて飢えをしのぎながら黙々と歩を進めた。

このような悪条件な旅を強いられたのは藩士だけでなく、婦人•老人•子供もだった。しかも若松を出立する際に病身だった者もいて、それらの者の中には苛酷な旅で身体を弱らせ、斗南の地を踏むこともできず途中で死亡する者もあった。


そうして新天地を目指した会津人は一万七千人ともいわれる。









そして、私達も――――。











まわりを見渡せば、潤いを(たた)えた夏の青葉が光に反射して目に沁みた。

明け方の雨に洗われて、囲む山々の緑が青空と相まってより鮮やかに映える。
北には群青色に染まる飯豊(いいで)山地の山々が連なり、東にはふたつの峰を持つ磐梯山(ばんだいさん)が眺められた。

夏の陽射しが降り(そそ)ぐ中でお互いを励まし合い、息を切らしてようやく登ってきた束松峠(たばねまつとうげ)のてっぺんで振り返る。
山並みの向こうに広がる会津盆地は、田畑の作物の葉が青々と育ち、美しい風景を俯瞰(ふかん)できた。

ここでかつて、激しい戦争があったなんて思われないほど。

間近で見れば(いま)だ戦禍の爪痕は多く残るが、それでも民の尽力でここまで戻すことができたと思うと、すごくもあり、ありがたくもあった。



しかしこの美しさをもってしても――――いいえ。
この美しさだからこそ、余計心に寂しさを募らせる。





だって、死ぬまで出ることはないだろうと思っていた会津の地を――――私達は今、背にしているのだから。





会津盆地にそそり立つ、若松の天守はここからも確認できる。

崩れかかっているだろうにも関わらず、変わりなく白く輝くその姿を見つめていると、愛おしさが募って惜別のあまり、なおさら心と身体を重くさせる。

同行していた藩士が天守に向かって「さらば」の一声を放つと、同じように眺めていた家族のあいだから嗚咽が広がった。





(……いつか、帰ってこられるだろうか)





愛おしい故郷。
あたたかな思い出が、たくさんつまった大切な場所。



できることなら、いつか戻りたい。

けれど……それはきっと、叶うことはないだろう。



磐梯山の裾野に広がる会津盆地の景色を目に焼き付けながら、涙で霞む天守に唇を噛みしめ黙礼した。







明治三年、六月。


私達もまた新天地へ旅立つため、越後街道を進んでいた。










飯豊山地(いいでさんち)……福島県と新潟県、山形県の三県にまたがる山地。

磐梯山(ばんだいさん)……福島県中北部、猪苗代湖の北にある火山。1888(明治21)年7月15日に大噴火し、ふたつの峰のうちのひとつが吹き飛び消滅した。その時裏磐梯三湖や五色沼などを形成。別名会津富士。

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