この空を羽ばたく鳥のように。



それからの道は険しいものだった。女子供、老人の多い移民団は知らず遅れがちになった。
長旅を経験したことのない私達は、必死の思いで皆について行った。九八は常に私達を励まし、時に足腰の弱った母上を背負いながら山路を歩き続けた。

六月七日 天気良し。泊まり、野沢。
六月八日 天気良し。泊まり、宝川。

幸いだったのは天気に恵まれたこと。
これが雨続きだったなら、旅はさらに困難なものになっていただろう。

六月九日 天気良し。泊まり、津川。

越後街道を歩き続け、ようやく津川へ着いた。
旧会津藩領だったここは県境となる関所があった。
新政府の役人四人が出てきて、取締りの指示のもと、それぞれの家族が若松県より受け取った印鑑を差し出した。


津川は日本の三大河港と称されるだけあって、とても栄えており、町は賑やかで活気があった。

町並みの様子も違っていた。今まで見てきた茅葺(かやぶ)き屋根の民家は姿を消し、どこの屋根も板葺(いたぶ)きに変わっている。しかも重しのためか大きな石がいくつも乗せられていた。

町家は間口四間(約7.2m)の短冊状の細長い家が軒を連ねており、その家はみな通りに面した側に長い(ひさし)を突き出していた。その下は雨や雪を避けて通行するのに便利な通路として町のずっと先まで続いていた。

それは「雁木(がんぎ)造り」と呼ばれ、荒川さまのお話では、謹慎していた越後高田藩でもこのような造りの通りを見かけたという。津川では雁木のことを「トンボ」と呼んでいるらしい。

この津川の雁木は、慶長十五年(1610年)に起こった大火のあと、復興時に整備されたといわれている。
積雪時でも生活路を確保できるという雪国の知恵。
そして特徴的なのは、町中を貫く一本道が一ヶ所だけ大きく鉤型に曲がっていることだった。
これは城下町で、敵の侵攻を少しでも遅らせるための工夫と同じだろうか。


戊辰の(いくさ)の退却のおりも、兵士達が戦いながら通過していった場所でもある。


八郎さまもここを通過して越後へ赴かれたのだ。
そう考えたら、感慨深いものがあった。
きっとえつ子さまも同じ気持ちに違いない。



(八郎さまはどんなお気持ちでここを眺めていかれたのだろう……)



戦が始まる前はもっと活気があり、賑やかだったことだろう。
それを目の当たりにして、今の私のようにわずかでも心が弾んだかもしれない。

八郎さまが再び津川の地を踏むことはなかった。
国境の防衛のために戦い、命を落としてしまったから。



(覚えていよう……八郎さまが辿っただろう道。八郎さまが見ただろう景色。賑わう声や、川とともに流れてくる風の匂いを)



目を閉じて、五感を研ぎ澄ます。

八郎さまが見たもの、感じたものすべてを。
私も心を寄り添わせ感じたい、そう思った。





明日は舟で川を下って新潟へ行く。

歩かなくても新潟に着けることを喜びながら、私達はすっかり棒になった足を休めるために宿へ入った。

六月十日 明け六つ(午前6時)一番より乗船。

朝日が昇るとともに、大船戸という船着き場から舟に乗る。私達が乗る舟は「ヒラタ船」という帆掛け舟で、その大きさは大中小と三種類あるそうだ。
四艘に百六十三人を分乗させ、それぞれの舟に取締りが乗り込む。私達は荒川さまが取締る一番船に乗りこんだ。

船体の後部には(わら)屋根で覆われた客席があったが、外の景色が見たくて、私は帆柱の近くに腰掛けた。

舟は帆に風を孕み、順調なすべり出しを見せて阿賀野川を下ってゆく。

会津からずっと続いている川なのに、会津では阿賀川または大川と呼ばれていたものが、津川から阿賀野川と名称が変わる。

まわりの景観はすばらしいものだった。船頭が櫂を操りながら歌う舟唄に耳を傾け、初めての体験に胸を高鳴らせつつ、しばらく舟旅を楽しんだ。

時に急流に差し掛かりながらも、櫂を操る船頭の巧みな技で舟は川面を滑るように進んでゆく。

急流を抜けて流れが穏やかになると、船頭が戊辰の戦の話をしてくれた。ここらも阿賀野川を挟んで、西軍と東軍の撃ち合いがそこかしこであったのだそうだ。

その話を家族にも聞かせようと客席を振り返ったが、舟の心地良い揺れに他の者や家族はうたた寝をしている。九八なんかはいびきまでかいて熟睡してる。

日頃の疲れが出たのだろう。皆を起こすことも(はばか)られたので、取締りとして船頭の近くで座していた荒川さまとふたりで聞くことにした。

私が石間から小松関門あたりの戦いで親戚が亡くなったことを話すと、船頭は「ああ」とうなずいて少し先の右岸を指した。ちょうどあの辺りだという。

驚いて川の右岸へ目を凝らす。このどこかで八郎さまが亡くなられたのだと思うと胸が詰まった。
八郎さまも討死した他の者も、遺体は家族のもとに還らず埋葬されたのかも分からない。



「亡くなられた方がたはどうなったかご存知でしょうか?」



訊ねると、私達が会津から来た一団と知っていた船頭は、言いにくそうに口を開いた。



「皆さまにお話するのは気が引けますが、会津さまは退却しながらこのあたりの町や村に火をかけていきなすったんで、地元民から憎まれておりました。
その親戚の方が含まれていたかは知りませんが、戦死した会津兵は土地を荒らされた地元民から、会津め、会津めと憎しみを込めて川に投げ入れられやした」


「……そんな!」



なんて(むご)い。その中にもし八郎さまも含まれていたら。そう考えたら胸が張り裂けそうだった。
しかし以前 助四郎に言われたように、武士の戦いに巻き込まれた民の気持ちも分からなくはない。



(けれど……けれど。それでも死んでいった者にその罪を着せるなんてひどすぎる)



そんな無念の思いで拳を握りしめる。

察した荒川さまが、私を諭すようにおっしゃった。



「さよりどの。お気持ちは分かるが、こちらの言い分を押しつける訳にはいかぬ。
たしかに敵に利用されぬよう、戦闘や退却の際に村や町を焼き払うのは戦の常套手段。
しかし勝つことばかりに必死で民の気持ちや補償を考えぬのであれば、人心が離れるのも無理はない。
当然と言えば当然の報いなのかもしれぬ」



荒川さまの口調は憤ることなく落ち着いていた。
私も頷くしかなかった。

敗残の兵となった今では、どんな扱いも受け入れるしかない。
そんなあきらめにも似た心境だった。



(えつ子さまがお眠りになられてて、よかった……)



皆も聞いていたなら、胸を痛めたことだろう。

右岸へ向けて手を合わせる。八郎さまやこの地で亡くなった者達への冥福を祈らずにはいられない。



舟は進み、越後平野へ出ると、途中新津満願寺から小阿賀野川へ進行先を変える。小阿賀野川は阿賀野川と信濃川をつなぐ航路として整備された川。
そこから信濃川へ入り、新潟港へ向かう。

そうして七ツ半(午後5時)頃、ようやく私達は新潟へ着いた。

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