この空を羽ばたく鳥のように。
この瞬間、すべてが奇跡だった。
明け方の陽光が海に反射して、抱きしめあうふたりを柔らかな朱色の光りが包み込む。
喜代美の腕の中で気持ちが落ち着いてくると、心地よく響いてくる波の音に、静かに耳をかたむけた。
何も気にしない。何も考えない。
喜代美が今 目の前にいて、触れあえる。
それだけでいい。
もっと、もっと強く抱きしめて。
喜代美の存在を 強く感じていたい。
神さまが与えてくれたこの時間を 大切にしたいから。
「ずっと……ずっと、こうしたかった」
『私もです……あなたに触れたくて、たまらなかった』
喜代美が私を包んだまま、顔を近づけ額をコツンと触れ合わせる。
求められる悦びに頬をすり寄せ、幸せに浸る。
どちらからともなく笑みがこぼれた。
「もう離れない……ずっと喜代美のそばにいる」
話したいことが たくさんあるの。
嬉しかったことも、悲しかったことも。
辛くて慰めてほしいことも、謝りたいこともぜんぶ。
会えなかった分、離れていた分、
たくさん、たくさん 伝えたい。
けれど喜代美は、表情を曇らせる。
『いいえ……あなたは行かなくてはなりません。あの船に乗って、新しい場所へ』
喜代美は海を見つめた。私も同じく視線を向ける。
朱色に包まれる海面に、停泊中のヤンシー号が朝日に照らされ光り輝いている。
「嫌よ。喜代美と一緒じゃなきゃ、船には乗らない」
もう離れない。会えなかった日々のつらさを味わうのは二度とごめんだ。
『私は……残念ながら一緒にゆけません』
そう言って、喜代美は寂しそうに目を伏せ首を振る。
『本来なら私はもっと遠い、北のほうへ行かなければなりませんでした。それなのに長いあいだ……ずっと待っていてもらったのです。きっとこれが私が留まる最後となりましょう』
「いや……嫌よ。また離れるなんて」
『さより姉上……私はずっと』
「うん、そうだね。本当はずっと、そばについててくれたんだよね」
過去を思い返してみる。
戦争に負けて、降伏開城に空を仰いだ時も。
父上と源太を失い、泣き崩れた夜も。
おたかの村でみんなと助け合って暮らしていた時も。
先日、初めて海を見た時も。
そして今日、サヨリを見た時も。
たとえ姿は見えなくとも、喜代美はずっとずっと、そばで私を見守り続けていてくれたんだね。
だから今、喜代美はここにいるんでしょう?
「ありがとう……すごく嬉しい。それなのに、今まで気づかなくてごめんね」
手を伸ばして、喜代美の頬に触れる。喜代美は目を閉じてわずかに首を振った。
『いいえ……私は何も出来ませんでした。あなたが辛く苦しい時も、悲しみに涙で咽ぶ時も。私はただ、見つめることしか出来なかった』
「喜代美……」
『この腕で抱きしめ慰めることも、言葉をかけて励ますことも。あなたに何もしてあげられない……私は、無力でした』
瞳に寂しさを滲ませる喜代美を見つめながら、源太との事を思い出してギクリとする。喜代美が不在中それをしてくれていたのは源太だった。
すべてを知って傷ついているのだと感じて、喜代美の頬から手を離す。申し訳なさと恥ずかしさで胸が苦しい。
「ごめんなさい……私、喜代美がいないあいだに……源太に救いを求めてしまった……」
裏切ってしまった私は、本当はこんなふうに喜代美に触れる資格がないのかもしれない。
そう思ったら急に自責の念に駆られて、喜代美から離れようとした。けれど喜代美は腕の中に私をおさめたまま離さない。
『気にすることはありません。あなたの心が望んだのなら、それは必要だったのでしょう』
「でも……」
『責めるならば私のほうです。自身の思いを優先するあまり、そばにいてやれず心細い思いをさせました』
「そんなことない……!」
大きく首を振って否定する。急に腹立たしくなって、声を荒らげた。
「喜代美は悪くない!悪いのは私よ!何でそうなの⁉︎喜代美はいつも自分ばかり責める!喜代美はひとつも悪くないのに!」
くやしくて、泣きたくなって、涙声で言い募る。
「私は喜代美に何度も助けられた!喜代美の存在があったから、私はこうして生きてこれたの!必ずまた会えるって、その日を信じてた……!」
『さより姉上……』
「喜代美が許してくれるなら、もう離れない。離れたくない。お願い……私も一緒に連れてって!」
胸にしがみついて頼み込むと、喜代美は困ったように眉を下げる。
『離れるのがつらいのは私も同じです。ですが……必ず迎えに参ります。ですから待っていてください。それまでは私の分まで、家族のそばにいてあげてください』
「……待つって、いつまで?いつまで待てばいいの?」
喜代美には分からないの?この手を再び離すつらさを。
あんたを失い、心が引きちぎられるような胸の痛みを。
そんな絶望を、もう一度 味わえというの?
ぼろぼろと、先ほどとは違う涙が溢れだす。
このまま すべて奪い去ってほしいのに。
『泣かないで……』
少し身体を離し、喜代美は私の顔をのぞき込む。
『あなたは私の命そのもの……ですから、あなたが生きている限り、私の心も生き続けます』
「喜代美……」
手を伸ばせば、届くのに。
喜代美に触れることができるのに。
今の私達には どうしても越えられない隔たりがある。
それが 悲しくて たまらない。
こらえきれずに流れる涙を、喜代美が指で優しく拭い、励ますように微笑んだ。
『ああほら、泣かないで。私が涙をとめるまじないをしてあげます』
「まじない……?」
『はい。以前よく効いたでしょう、あれですよ』
それは 喜代美が出陣する間際に、泣きじゃくる私にしてくれたおまじない。
『さあ、目を閉じて』
何をされるか分かっているから、促されるまま静かに目を閉じる。
ゆっくりと私の両肩に手が乗せられ、右のまぶたに喜代美の柔らかな唇が触れた。
以前と変わらない、同じ動作。だから次も分かる。
思った通り、それは左のまぶたにも同じように触れ、
そして最後に――――私の唇に、そっと重ねられた。
優しく口づけされた感触が唇を通して伝わってくる。
以前にはなかった動作に、胸が打ち震えた。
じんわり沁みる喜びに目を開く。
そこにいるはずの喜代美の姿はもうなかった。
「………喜代美?」
とたんに静寂が破られる。人々は動き出し、にぎやかな喧騒が耳を打つ。
さっきまでのまばゆい朱色の陽光も消えていた。
辺りは暗く、まだ朝日は昇っていなかった。
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