この空を羽ばたく鳥のように。
* 遅い春 *
その男を見つめて、思わず憮然としてしまいやした。
なんせ、もう二度と会わないと思ってやしたから。
斗南に移ってから仕えている主人•主水さまと用事を済ませて家に戻ると、なぜか物々しい雰囲気の駕籠が長屋の前に置かれ、駕籠かきまで控えておりやした。
何事かと訝りながら旦那さまとともに家へ入ると、おなをさまがホッとした顔で迎え、「お客さまがお見えです」と小声でおっしゃるではないですか。
見ると囲炉裏が切られた板間に、いやに場違いな、紋付き羽二重の上等な羽織を着た若い男が正座して待っておりやす。
「お待ち申し上げておりました」
両の手をつかえ、うやうやしく頭を下げる男をまじまじと見つめ、「あっ」と記憶がよみがえりやした。
「おめえっ……!さよりお嬢さまに妾奉公させようとした奴じゃねえか!たしか……そうだ、清吉だ!てめえ何しに来やがった!」
顔を見るなり思い出し、怒りのあまり指さして怒鳴ると、それを手で制した旦那さまが落ち着いた態度で訊ねやした。
「裕福な廻船問屋の若だんなが、こんな荒屋に、いったい何用でまいられた」
清吉は顔を上げると、思い詰めたような顔つきで言ったんです。
「実は、津川さまにたってのお願いがございまして、こうして訪ねてまいりました」
旦那さまは板間に上がると清吉と向かい合って座り、わしは不安そうに事の成り行きを見守るみどりさまやおなをさまに倣って、憮然としながらも板間の隅に控えやした。
(こいつの用事なんて、こないだの仕返しに決まってらぁ。まさか旦那さまにいちゃもんつけに来たってワケじゃねえだろうな)
一体何を要求してくるか。身構えるわしを横目で見つつ、旦那さまは口を開きやした。
「それで、たっての願いとは」
促すと、清吉はあらためて手をつかえ、はっきりとした口調で打ち明けやした。
「さよりさまをわが妻に迎えとう存じましてお願いにあがりました」
思いもよらねえ発言に、一瞬 思考が止まりやした。
次に沸きあがったのは怒り以外ありやせんでした。
「はあっ⁉︎ てめえ、どのツラ下げて妻にだなんて言いやがるっ!どうせ妾にするつもりじゃろうがっ⁉︎ 」
「落ち着け、九八」
身を乗り出しそうになるのをとなりに座るみどりさまに押さえられつつ怒鳴りつけると、旦那さまが話が進まないとばかりにジロリとこちらを睨みやした。
「若だんな。それは先日そちらに恥をかかせた詫びを入れさせるためのものでござるか。でしたらさよりは関係ござらぬ。詫びならそれがしがそちらへ赴き、如何様にも詫びましょう」
「……!」
旦那さまのお言葉に、さらに怒りが増しやした。
なるほど、やはり恥をかかせられたことを恨み、わしらでは太刀打ちできねぇからってんで、さよりお嬢さまを手の内で貶めて晴らそうって魂胆か。
(そんなこと!旦那さまもわしも、高橋さまだって黙っちゃいねぇぜ!)
「いいえ、滅相もございません!」
清吉はとんでもないとばかりに、あわてて頭を振った。
「私は心からさよりさまを妻に迎えたいと望んでいるのです!」
「ほう。それは何故でござろう。そちらにとって、賊軍の落ちぶれた娘なんぞを嫁にしても、何の得にもならぬはずじゃが。
それとも近江屋の主人に、わが家系に武家の血脈を入れたいとでも頼まれましたか」
武家は幕政時代の特権階級だ。もちろんピンからキリまであるが、庶民からしてみれば、武家の出というだけで箔が付く。
そこを利用する気だな、なんて奴だ!と、部屋の隅から睨みつけていると、清吉はしょんぼりとうなだれて答えやした。
「いいえ、父には猛反対されました。津川さまのおっしゃるように、何の得にもならないばかりか、厄介者を背負うことになると」
「何だと……っ!」
「九八、おさえて!」
清吉の一言一句に怒りを表すたび、みどりさまとおなをさまに押さえられ、果ては旦那さまに「これ以上見苦しい姿をさらすと外へ放り出すぞ」と睨まれて、口をひん曲げて仕方なく我慢して座りやした。
旦那さまは感情を消した声音でおっしゃいやした。
「父御の申すことが正しい。素直に受けることが、そちらのためにもよろしかろう」
最初から返答するまでもない。話は済んだとばかりに旦那さまは腰を浮かせようとなさいやしたが、清吉がすがりつくように声をあげやした。
「いいえ!父は説得いたしました!だからこそ、ここまで日がかかってしまったのです!」
「なに……?」
「私がおとなしく家業を継ぐかわりに、父の許しは得ております!あとは津川さまのお心ひとつです!どうか、さよりさまを私にください!」
ここへきて初めて、旦那さまの顔つきが変わりやした。
わしも、みどりさまやおなをさまも、驚きを隠せやせんでした。
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