いつか、星の数よりもっと

「どういうことですか?」

大槻だけは難しそうに眉間の皺を手で揉んでいた。

「お互いに飛車を振るこの戦型は、相振り飛車と言います。振り飛車党でも、相手が飛車を振った場合は居飛車を指す人もいるので、相振り飛車の将棋は少ないんです。だから居飛車に比べて研究もあまり進んでいないし、前例も少ない」

女流棋士にはなぜか振り飛車党が多く、従って相振り飛車に関しては女流の方が進んでいる、と言う人もいる。

「えーっと、つまり、どういうことですか? トッキーは勝てそうなんですか?」

大槻は首を横に振る。

「わかりません。その『わからない』というところに勝負をかけたのでしょう。相振り飛車は定跡が整備されていないので自由度が高いんです。見たことない局面になりやすい。そこが狙いだと思いますが……でも、振り飛車は梅村王位の土俵ですからね」

無表情ながらも貴時は一手一手ひねり出すように指す。
対する梅村は堂々とした態度が変わらない。

「怒らせたかもしれません」

梅村が銀を打ち付けたのを見て大槻が呟いた。
まだ駒組の段階だというのに、もう攻めてきたのだ。

「怒る?」

「定跡が整備されてない、つまり前例の少ない将棋というのは、地力が試されます。特に相振り飛車はセンスが大事とされているんです。タイトルホルダー相手に、本来自分の持つ力だけで勝負を挑むのですから、不遜ですよね」

“不遜”という言葉と貴時が結びつなかない緋咲は眉を寄せる。

「意外ですか? でも将棋を指す人間ですから、激しいものは当然持っています。指す相手に感謝と敬意は忘れない。けれど遠慮もしない」

表情に変化はないけれど、貴時は一手一手時間を使う。
しかし梅村は余裕さえ感じる早指しで対応していた。

「王位は自分の大局観に自信があるんでしょう」

「トッキーはどうなってるんですか?」

「攻めるべきか守るべきか、常に選択を迫られて時間を使わされています。王位の掌の上ですね」

「負けるんでしょうか?」

「そうならないように、今必死に考えているところです」

貴時の無表情の上に、ほんのり赤みが差している。
フル回転している脳がオーバーヒートしているのかもしれない。
そしてうつくしい手つきで、貴時は角を打ち込んだ。
魂の欠片が吹き出したようなその指先を見て、緋咲は生まれたばかりの貴時が、細くガサガサとした指で、緋咲の人差し指を握った日のことを思い出した。
守りたいと思ったあの手は、今、日本の最高峰に向かって伸ばされている。
< 100 / 133 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop