いつか、星の数よりもっと
「ちょっと、一直線に入りましたね」
「『緩め』てもらえないんですか?」
「そんなこと、市川君だって望まないでしょう」
「じゃあ、こんなにたくさんの人の前でボロ負けするってことも……?」
「ありますね。棋士は恥ずかしい失敗も、泣きたい敗戦も、すべて棋譜として何百年も残る仕事ですから」
この手しかない、仕方ない、そんな風に誘導され、貴時はすでに梅村勝利のルートに乗ってしまっていた。
そこから外れたくても、考える時間ももう残っていない。
「20秒ー、1、2、3、4、5、6、7、8、」
手が乱れるほど慌てて、金を打つ。
取って取られて、貴時の玉のすぐそばで、持ち駒がくるくる交換されていく。
緋咲の目にも、玉を守るための防御線が崩れていくように見えた。
パチリ、パチリ、
駒音がするたび、緋咲の胸の奥でそれとは別の音が立つ。
その音の意味を、緋咲は知っている。
「もう難しいですね」
大槻の声に反応したかのように、貴時がふっと天を仰ぐ。
肩をわずかに上下させて息を吐いてから、角を移動させた。
その角は梅村の玉を睨む。
しかしゆっくりと梅村は、玉を逃がした。
まるで貴時が力なく向けた刃を、冷笑とともにかわすように。
「負けました」
膝に両手を乗せて、はっきりと貴時はそう告げた。
刀が地に落ちるような声だった。
梅村も一礼し、会場中から拍手が贈られる。
梅村は明るい笑顔を浮かべて話し掛け、貴時も微笑みながら応える。
緋咲も精一杯の拍手を贈ったが、胸の奥で込み上げる痛みに耐えていた。
その痛みの理由を、緋咲は知っている。
完敗だったらしい。
貴時は何でもないように笑っているが、緋咲には小学生名人戦のときと同じ表情に見えていた。
奥歯が砕けるほどに何かに耐えている、あの顔。
すっと大槻からハンカチが差し出され、緋咲はそれを顔にあてた。
「すみません。お手洗いに行ってきます」
「ゆっくりでいいですよ。そのあとは駐車場で待っています。今日は疲れたので、もう帰りましょう」
グレーのハンカチの向こうから、大槻の労りが染みてきた。