いつか、星の数よりもっと
ドアが閉まって、貴時もそのまま部屋に戻る。
ふたたびカーテンの隙間から外を伺うと、パタパタという足音をさせて緋咲が車に走り寄るところだった。
「おまたせー」
慣れた様子で緋咲は助手席に乗り込む。
男が煙草を消して、煙を吐きながら何か言った。
緋咲は笑って、あの手で男の肩を叩く。
そのまま車は去っていった。
そのあとには、休日のためかガランと空いた駐車場と、道路脇の植え込みしか見えない。
何度まばたきをしても瞳は潤むことなく、その景色を映し続けていた。
いつの間にか呼吸が浅くなっていて、貴時はゆっくり大きく息を吸う。
カラーボックスから『決定版! 将棋名局大全』を取り出して、そのボロボロの本をめくった。
開きすぎて、薄い表紙などは置いただけで浮いてしまうほど使い込まれた本だった。
すでに頭に入っている棋譜をゆっくり丁寧に並べて行く。
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩打 ▲2八飛
小学校五年生の9月に6級で奨励会に入会してから二年半。
貴時は1級になっていた。
棋力が上がるのと一緒に育ててきた気持ちは行き場を失って、今、盤の上をふらふらと漂っている。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
ずっと幼さゆえ自覚するには至らず、自覚したところで届かない想いだった。
耐えることに慣れた瞳は、容易には涙を流さない。
いつ、どのタイミングで泣くべきだったのかわからないほど、最初から遠いひとだった。
何かを好きになるのは悪いことじゃないと言ったくせに。
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛 ▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩打
泣いて忘れるすべを知らない貴時の指は、駒を持つことで痛みを振り払う。
おろしたてのワンピースで踊るように出掛けていく姿も、媚びるような電話の声も、襟元から見えてしまった赤い跡も、こうやって棋士たちの気持ちのこもった棋譜で押し流してきた。
自分のために奔走してくれた人がいる。
身を粉にして働いてくれる両親もいる。
我がことのように喜び、応援してくれる人がたくさんいる。
だからどうせ将棋以外に目を向けてはいけないのだ。
▲2六歩 △8四歩 ▲7六歩 △3二金 ▲2五歩 △8五歩 ▲7七角
努力で身長は伸びない。
努力で年齢は変わらない。
それなら、努力で掴めるものには努力しよう。
この傷がどれだけ深いのか、貴時本人にもわからなかった。