いつか、星の数よりもっと


りんりんと虫が鳴く夜道を、ヒールを鳴らしながら歩く。
昨日の貴時の昇段から浮かれたまま、緋咲はよく働いた。
働き過ぎてすっかり遅くなり、ついでにラーメンまで食べて帰宅したのは夜10時。
明るい夜空にはチラチラ星が瞬いており、秋の匂いを含んだ涼風が熱々ラーメンで火照った頬に心地よい。
このままどこまでも行けそうな気がして、踊るようにアパートの階段を上った。
ところが、思いがけない影に、びっくりして足を止める。

「おかえり。ひーちゃん」

廊下の暗がりから夜空を眺めていたのは、貴時だった。

「気持ちいい季節だね。あ、でもまだ蚊はいるみたい」

シャツから出る左腕をポリポリ掻くその姿に、まばたきもできず見入った。

「ずいぶん楽しそうだけど、もしかして酔っぱらってる?」

かすかに首だけ振って否定したが、声は出なかった。

「昨日は友達のところに泊めてもらって、今朝帰ってきたんだけど、家の方はずいぶん騒がしくて。ちょっと、抜け出して来ちゃった」

昇段が正式発表されると、市川家にはお祝いの連絡が殺到した。
親戚、将棋関係者、友人、団地の住人などが押し寄せ、電話もメールもひっきりなし。
本人不在の中、沙都子と博貴はその対応に追われ、ゆっくり喜ぶ暇もなかった。

貴時が帰宅すると、今度はそれに取材も加わり、本来なら一番最初にすべき大槻への報告さえ夜になってしまった。
家まで送るという大槻の申し出を断り、誰にも内緒で緋咲の家に来ているから、この瞬間も携帯は着信のランプが点滅している。

「これでも精一杯早く来たんだけど、怒ってる? それとも、昇段遅くて気持ち変わっちゃった?」
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