いつか、星の数よりもっと
「昇段おめでとう」
顔を見上げて伝えると、今日の夜空より曇りのない笑顔で貴時は笑った。
「ありがとう」
ゆっくりと貴時の顔が近づいてくる。
緋咲は目を閉じてその瞬間を待った。
そして、あの夜と同じくらい近く、湿った吐息が届く距離で止まって、今夜もふっと離れる。
「……やっぱり、すごく緊張する」
そんな貴時の頬を掴んで引き寄せ、緋咲はその唇を奪った。
落款でも押すようにじっくり口づけた後、唇の右端に、今度は左端に、下唇に、上唇に、位置を変え、角度を変えて、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と繰り返す。
貴時の反応はなかったが、少し離れたら、今度は貴時から距離を詰めた。
ぎこちなく、余裕もなく、決して上手とは言えないそのキスに、緋咲は一瞬で飲み込まれた。
過去の経験なんてまったくの無意味。
ただ触れていたい。
愛する想いを伝えたい。
キスとは本来、そういうものだから。
「ごめん、トッキー……、」
キスの合間に緋咲は訴える。
「もう、倒れそう……」
緋咲は貴時の肩のあたりを強く握って身体を支えていたから、慌ててその背中を支える。
「え! 大丈夫? どこか具合悪い?」
なぜそうなるのかと、緋咲はガックリと胸に頭を寄せた。
「そうじゃないの。身体の力が抜けちゃっただけ」
貴時はしばらくそのまま立ち尽くして、
「えっと……それで、俺はどうしたらいいの?」
と困り果てた声を出した。
緋咲は思わず吹き出して、貴時の胸の中に笑い声を響かせる。
「どうもしなくていい。トッキーは、そのままでいいよ」
ふらつく脚に鞭を打って、バッグから鍵を取り出し、ドアを大きく開ける。
「どうぞ。今日は入るでしょ?」
さっさと靴を脱いで上がった緋咲が振り返ると、貴時はまだドアの外にいた。
「どうしたの? さすがに今日の今日で取って食ったりしないよ?」
緋咲の明け透けな物言いも気にした様子はなく、真剣な顔で問う。
「ここに男が入るのって、俺が最初?」
「そうだよ。あ、引っ越し業者さん以外はね」
「俺が、最後だよね?」
何も求めてこなかった貴時の、初めてとも言える要求だった。
緋咲はふたたび靴に爪先を入れて、貴時の手を引く。
「そうだよ。引っ越し業者さん以外はね」
かんたんに言うなあ、と貴時は思う。
緋咲はどれほどその意味を理解しているのだろうか?
よろけるように入った緋咲の部屋は、あの桃のような匂いで満ちていた。