いつか、星の数よりもっと
「あれ、蒼志さん?」
目線でひとりの男性を指して、こっそりと貴時は緋咲に問う。
「そうだよ」
「……俺、初めて見たかも」
「ええ!」
「いや、もしかしたら見かけたことはあるかもしれないけど、話したことはない」
蒼志と貴時はちょうど一回り違う。
貴時が物心つく頃、高校生の蒼志はあまり家におらず、大学進学後はほとんど帰ってきていない。
「そうだったかしらね。でも蒼志は貴時君を昔から可愛がってたって自慢してたから、てっきり会ったことあるんだと思ってたわ」
紀子の発言に、緋咲の兄を見る目はゴミを見るものに変わる。
「我が兄ながら恥ずかしいヤツ。いいよ、いいよ。あんな人、生涯話さなくたって何っっっにも問題ないから!」
「そういうわけにいかないよ。長い付き合いになるんだから」
ね? と微笑まれて、緋咲の怒りは泡と消えた。
襟元で翅を休める蝶の飾りを、モジモジ指で弄ぶ。
そこにまたもや遠慮のない笑い声が割り込んだ。
「それにしても、あのバカ父子! ちょっと調子に乗り過ぎね!」
羽目をはずし気味な父子を絞めに紀子は向かい、
「あ、俺も一緒に行きます」
貴時も挨拶がてらついて行く。
大槻はそんな背中を微笑みながら見送った。
「市川君が中学生のとき、一度だけ『プロになるまで恋愛もやめなさい』と言ったことがあります」
大槻にしては珍しく、都合悪そうに小声だった。
「立ち入ったことを言ってしまったと、すぐに後悔したのですが、市川君はいつものように『はい。大丈夫です』と答えたんですよね」
貴時の抱えてきた想いは、ずっと叶わないものだった。
ある意味、将棋に影響しなかった点だけは、よかったのかもしれない。
それでも、そんな返事をした貴時の気持ちを想像して、緋咲の心は音を立ててきしんだ。
大槻は、まだ赤い目をやさしげに細めて緋咲を見る。
「だから、いい相手が側にいてくれて、本当はホッとしてます」
「先生~~っ!」
緋咲は赤い顔を両手で覆い、目を潤ませた。
「そう言ってくださったの、先生だけですー!!」
年齢、性別、価値観、歩んできた人生、何一つ共通点のないこのふたりは、貴時を大切に思う、その一点だけでお互いを信頼していた。